trade2の日記

2007/9/30(日)
かごめかごめ考

先日からなにか妙にかごめかごめの歌が気になるのでいろいろ考えてみた。
かごめかごめとかずいずいずっころばしごまみそずいとかとおりゃんせとか意味不明の歌が子供に歌われてきてなにかの暗号ではないかと数年置きにブームになるような気もする。
かごめかごめは暗号なのだろうか。

私が小さい頃に友達と歌っていたかごめかごめの歌詞はこうだ。

かぁごめかごめ かぁごのなぁかのとぉりぃは いぃつぅいぃつぅねぇやぁる
よぉあぁけぇのばんに つぅるとかぁめが すぅべった
うしろのしょうめんだぁぁあれ

籠にこめられた鳥がいつ寝るのか
夜が明ける晩に 鶴と亀が滑った
後ろの正面はだれだ

意味不明である。
鶴と亀が滑ろうがどうでもいいじゃないか
とくに幼稚園児に鶴と亀が滑ったからといっても意味不明である。

で、まずこういう時のネット検索。
鶴になにか意味でもあるんだろうか。
gooの辞書検索で鶴を含む言葉を調べてみる。
すると鶴の種類で姉羽鶴という鶴がいるのを発見。この前の耐震偽装で注目を集めた人がこんな名前じゃなかったかな。姉歯さんだったかな。
鶴に関しては全部で100ちょいの項目しかないのですぐに見終わる。特に目を引くものはない。
次、亀。
調べていくと、亀戸というのが目に入る。『かめいど かめゐど 【亀戸】
東京都江東区北部にある商工業地域。鷽替(うそかえ)の神事で知られる亀戸天神がある』。なんだろう、結構お祭りとか知っているつもりだったのにいままで鷽替え神事なんて聞いたことがないやと思って、亀戸天神社をネットで調べて見に行く。
http://www.kameidotenjin.or.jp/index.html


うそ替え神事
“うそ”は幸運を招く鳥とされ、毎年新しいうそ鳥に替えるとこれまでの悪い事が“うそ”になり一年の吉兆(きっちょう)を招き開運・出世・幸運を得ることができると信仰されてきました。
江戸時代には、多くの人が集まりうそ鳥を交換する習わしがありましたが、現在は神社にお納めし新しいうそ鳥と取替えるようになり、1月24・25日両日は多くのうそ替えの参拝者で賑わいます。

うそ鳥は、日本海沿岸に生息するスズメ科の鳥で、太宰府天満宮のお祭りの時、害虫を駆除したことで天神様とご縁があります。又、鷽(うそ)の字が學(がく)の字に似てることから、学問の神様である天神様とのつながりが深いと考えられています。

亀戸天神社の“うそ鳥”は、檜で神職の手で一体一体心を込めて作られ、この日にしか手に入らない貴重な開運のお守りとしてとても人気があります。





鷽鈴
鷽笛
鷽ストラップ

うそ替え神事以外でも通年おもとめできます。



うそという鳥は見たことがないのだが、このページにでている木彫りの人形をみると頭が黒くてペンギンみたいな目をしてくちばしの下から赤いエプロンをしているようななんだか憎めない鳥だ。

で、この亀戸天神社の由来は


正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩かれ 、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神 の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。
当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。


だそうで、明暦大火のために造られたようだ。
私は歴史に疎いので明暦大火ってなんだろうかしらないのでまたネットで調べてみた。

明暦大火の秘め事 (農業協同組合新聞)
http://www.jacom.or.jp/uchu00/01032901.html

明暦大火の秘め事

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 江戸時代の「三大火事」の一つ明暦大火は、三省堂の大辞林によると「明暦三年正月一八日、本郷本妙寺から出火して、翌日にかけて江戸城を含む府内のほぼ6割を焼失、死者10万人余を出した江戸最大の火事。この後、江戸の都市計画が進められた。振袖火事」と出ている。
 振袖火事といわれたゆえんは、恋わずらいで亡くなった娘を不憫に思った親が、本妙寺で読経供養の後、生前一番愛していた振袖を燃やしたところ、折からの強風で舞いあがり、本堂の屋根に燃え移ったことによる。
 ところが、昨年末新聞で本妙寺が「火元の言い伝えは誤解」と訴えた小冊子を出したとの記事を見た。
 現在の本妙寺は、豊島区の染井霊園の近くにあるが、ある日、寺を訪ねたところ本堂の横に、明暦の大火と、安政地震の2つの供養塔があった。
 寺務所でいただいた冊子によると「火元は本妙寺」という通説に対し、宗門内では、つとにそれを否定する指摘があったが、今回、外に向けて大火の真相を積極的に訴えることにしたとある。
 本寺の由来をさかのぼると、徳川家発祥の岡崎に所在する古刹につながり、そのゆかりで山号も「徳栄山」と徳川家が栄えるようにとの願いが込められている。
 寺は家康のその後の居城浜松から江戸に移り、府内を転々としながら、最終的に本郷丸山(地図で見るように現在の東大赤門の近く)に落ち着き、明治43年まで所在した。
 丸山に移って間もなく、例の大火で全焼したが、地図によると本妙寺に隣接した北西部に「阿部伊豫守」の中屋敷があり、当時は老中の阿部忠秋が住んでいた。
 火の手があがった当日は朝から北風が吹き荒れ、阿部家では雨戸を閉めたままであった。このため屋敷内は暗く、女中が火のついた手燭を持って歩いていたが、転倒し、火が障子に燃え移り、大火に及んだという。
 老中宅が火元とあっては、その責任は重く幕藩体制が揺ぎかねないし、市内の復興計画にも支障が出てくる。そこで、筆頭老中松平伊豆守信綱や、久世大和守、当事者の阿部伊豫守の3老中が一体となって協議した。
 その結果、幕府側から阿部家の風下にあり、徳川家と縁も深く、久世家が檀家ともなっている本妙寺に、失火の汚名を着るよう要請した。寺側も「大義」に殉じてそれを承知した。
 その代償として、火元として厳罰に処せられることもなく。さらに、以降260余年にわたり、本寺に対し、阿部家からは回向供養料が出された。
 江戸時代とはいえ、「火元は阿部家だ」という噂が広がらなかったのは不思議に思えるが、幕府側がいち早く「火元は本妙寺」という話しを流布したことと、阿部家に関する情報が一切秘匿され、寺側も全員が汚名を着ることに協力したからであろう。
 知恵者松平信綱の指揮のもとで遂行された明暦大火の秘め事は、彼の思惑どおり、ほぼ350年たった今でも、辞書に「火元は本妙寺」と書かれており、事の良否は別として、彼や寺などの対応ぶりは見事である。
 それに引きかえ、昨今の政官民は、「秘め事」 が露見する都度、取り繕うのに右往左往して醜態を演じており、なんだか情けなくなってくる。        (MMC)


(古い記事でいつ消えるかわからないので全文引用させていただきました。)
で、この嘘をかくすために亀戸天神社が建てられたんだなぁ。

江戸は海に近いし、地形もでこぼこしているから、風が妙な具合に吹いていて予想以上に燃えるんだなぁとぼんやり。

しかし大火の後に都市計画とかいまの石原都知事には聞かせたくない話だなとかちょっと思った。


だんだんかごめかごめから話がそれてきたので、ここで気分一新。
ダイレクトにかごめかごめを検索してみる。

かごめかごめ 1 (最低山極悪寺 珍宝院釈法伝)
http://www.venus.dti.ne.jp/~bouzu893/iitai/it61_80/iitai75.html

このサイトで過去の文献をあたっておられて、いろいろ参考になります。
さすがお坊さんです。




かごめかごめ 1



最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

目次
第一部 鶴と亀はすべったか
  序章
  第一章 「かごめかごめ」の記録
    第一節 現在の「かごめかごめ」
    第二節 以前の「かごめかごめ」
       竹堂随筆
       四方のあか
       戻橋背御摂
       月花茲友鳥
       幼稚遊昔雛形
       俚謡集拾遺
       その他
  第二章 記録の絞り込み
    第一節 絞り込み 1
       新潟、長野の「かごめかごめ」
       「亀」について
       「後ろの正面 だあれ」
    第二節 絞り込み 2
       記録一覧
       「すべった」について
       「なべ」について
    第三節 絞り込みの結果
  第三章 「かごめかごめ」の試訳
    第一節 固定部分の訳
       かごめ かごめ
       かごの中の鳥は
       いついつ 出やる
       夜明けの晩に
       つるつる
       なべのなべの底抜け
    第二節 「つるつる」以下試訳 1
       「つっぱいった」
       仮説 1
       仮説 2
    第三節 「つるつる」以下試訳 2
       「つっぱる」
  第四章 結論


第一部 鶴と亀はすべったか
序章
 「かごめかごめ」という唄の謎解きをやろうと思う。子供の頃、「鶴と亀がすべる」というのは、不思議であった。長ずるに及んで、ものの本で、昔の「かごめかごめ」は、現在と違うことを知った。しかし、どう違うかまでは知らぬまま、今日に至っている。
 それが、インターネット上の某掲示板で、「かごめかごめ」が話題になったのを期に、謎解きを思い立った。但し、私は、高校時代、古文が苦手で、「次の動詞の主語を答えよ」という問題で、「うぐいす」だけを正解し、見事、百点満点で十点を獲得、以後、ウグイス法伝と呼ばれた男。あくまで遊びと心得られたい。

 インターネット上には、既に、いくつか、「かごめかごめ」を論じたページがある。「かごめ 鶴と亀」で検索すれば、簡単に見つかる。しかし、ほとんどは、意味不明であるのを良いことに、さしたる根拠もないままに、荒唐無稽の想像を膨らませているに過ぎぬ。その中、「かごめかごめ」の意味を知る上で、一読に値するのは、胡蝶さんの「A Square of Vanity」所収「かごめかごめ」歌詞考である。私がこの謎解きで、最も参考にさせていただいたページでもある。

 

第一章 「かごめかごめ」の記録
第一節 現在の「かごめかごめ」
 現在、巷間に流布する歌詞は、およそ、以下の通り。

かごめ かごめ 
かごの中の鳥イは いついつ 出やアる
夜明けの晩に 鶴と亀がすウべった
うしろの正面 だアれ
   (青いカタカナは、法伝)

 しかし、口承されてきたものゆえ、成立当初から、現在の形であったとは限らぬ。地方によっても異同がある。まずは、「かごめかごめ」が、今日まで、どの様に記録されてきたか。以下、煩雑を顧みず、紹介する。

第二節 以前の「かごめかごめ」
竹堂随筆
 「竹堂随筆」は、浅草覚吽院に住した修験僧行智の編んだ童謡集である。編纂時期は文政3(1820)年頃と推定されるが、収録されている内容は、宝暦・明和年間(1751〜72)のものと言われている。同書によれば、「かごめかごめ」は、以下の通り。

かァごめかごめ。か引ごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。つるつるつッペェつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいて引た引ァもれ。
   (青い引は、のばす印。茶色の部分は、原典で繰り返し記号)

四方のあか
 「四方(よも)のあか」は、大田南畝(蜀山人)の作で、天明年間に出版されている。直接に、かごめかごめを記録していないが、子供の遊びに言及した部分で、以下のように記している。

つるつるといる名にめでて、籠目々々とうたふ。
   (茶色の部分は、原典で繰り返し記号 以下同様)

 なお、一部に、「つるつるといふ名にめでて」と引用する者があるが、確認できなかったことを追記しておく。

戻橋背御摂
 戻橋背御摂(もどりばしせなのごひいき)は、鶴屋南北の手になる歌舞伎芝居で、文化10(1813)年、江戸市村座で初演された。南北は、この大切(おおぎり=芝居の最後)で、子供の遊び歌を取り入れている。出典によって、若干、内容が異なるので、ふたつ挙げる。

かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつッはいた
   (大南北全集)

 かご目かご目篭の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩につるつるつるはいつた
   (鶴屋南北全集)

月花茲友鳥
 月花茲友鳥(つきとはなここにともどり)は、文政6(1823)年、市村座で初演された。 この浄瑠璃には、

かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた

とある。

幼稚遊昔雛形
 幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしのひながた)は、天保15(1844)年に刊行された、万亭応賀編の童謡童遊集である。これには、

かごめ かごめ かごのなかへ(の)とりは いついつねやる
よあけのまえに つるつるつッペッた
なべの なべの そこぬけ そこぬけたらどんかちこ そこいれてたもれ
   (孫引き)

と収録されている。

俚謡集拾遺
  明治38(1905)年、文部省は、各府県に、管内の俚謡、俚諺、童話、古伝説等の報告を求めた。後に、この報告をまとめて、大正3(1914)年、俚謡集として刊行した。この時に掲載を見送られた童謡などを収録したのが、大正4(1906)年刊行の俚謡集拾遺である。ここには、東京、長野県南安曇郡、新潟県高田市の「かごめかごめ」が収録されている。それぞれ、

籠目かごめ、籠の中の鳥は、いついつでやる、夜明けの晩に、ツルツル辷(ツ)ウベッた。
   (東京 ツは振り仮名)

籠目かごめ、籠の中のますは、何時何時出やる、十日の晩に、鶴亀ひきこめひきこめ。
   (長野県)

かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、よあけの晩げつゝらつゥ
   (新潟県)

とある。

その他
 底本の成立時期が不明なので、引用は避けたが、これ以外にも、常磐津の「新山姥(薪荷雪間(たきぎおうゆきま)の市川)」が、月花茲友鳥と同様に伝承している。

 

第二章 記録の絞り込み
第一節 絞り込み 1
 以上の記録に限っても、現在、流布されている「かごめかごめ」とは、かなり違っていたことが知れる。ここでは、これらを元に、「かごめかごめ」の原形を求めて、絞り込みをしてみる。

新潟、長野の「かごめかごめ」
 新潟県高田市、長野県南安曇郡の「かごめかごめ」は、江戸・東京から伝播した可能性が高い。
 俚謡集拾遺は、新潟県、長野県については、俚謡が伝承された地域を記しているが、高田市、南安曇郡を結ぶ地域に、「かごめかごめ」の報告はない。また、東京と高田市、東京と南安曇郡を結ぶ地域にも、新潟県内、長野県内を含めて、「かごめかごめ」の報告はない。長野、新潟以外の県については、報告されなかった可能性も考えられるが、両県については、県内他地域の報告もない。
 高田、南安曇野の両地に、「かごめかごめ」が伝播した理由は不明である。両地が共に、徳川の親藩もしくは譜代の治める地域であったことと関係があるやもしれぬ。しかし、「かごめかごめ」の原形を求めるという目的から外れるので、この点は保留する。

「亀」について
 明治時代の長野県以外に、「亀」の記述がないので、亀については、明治末から大正以降に加えられた可能性が高い。
 亀を入れて謡うようになったのは、文献上は、長野県南安曇野郡が最初である。既に、東京の一部で、亀を入れて謡っていたものが、南安曇野に伝わったか、南安曇野の「亀入り」が東京に伝わったか、両者は無関係に、自然同時発生したか、疑問は残る。

「後ろの正面 だあれ」
 これは、俚謡集拾遺で明らかなごとく、明治末から大正以降に追加されたものであって、「かごめかごめ」の原形とは無縁である。

第二節 絞り込み 2
記録一覧
 ここまで絞り込んで、これまでに引用した記録を一覧にすると、以下のようになる。

年代
文献
「すべった」
「なべ」
宝暦明和(1751-72) 竹堂随筆 つッペェつた 記述あり
天明年間(1780頃) 四方のあか いる 記述なし
文化10(1813) 戻橋背御摂 つッはいた
つるはいつた 記述なし
文政6(1823) 月花茲友鳥 つるつゝぱつた 記述なし
天保15(1844) 幼稚遊昔雛形 つッペッた 記述あり
大正4(1906) 俚謡集拾遺 辷(ツ)ウベッた 記述なし

 
「すべった」について
 今日、「すべった」と言われる部分は、実に様々である。俚謡集拾遺の表記は、これらの語が「すべった」に転訛する過程を示している。「辷」は、本来、「すべる」と読む。俚謡集拾遺は、この文字を当てて、「ツ」とルビを振っている。すなわち、明治の終わり頃には、「すべった」の訛りと理解されているのである。「すべった」は、「かごめかごめ」の原形とは関係ない。

「なべ」について
 現在の「かごめかごめ」には、竹堂随筆や幼稚遊昔雛形に記録されている「なべ」以下の部分がない。幼稚遊昔雛形にあって、俚謡集にないので、この間のいずれかの時期に、「なべ」以下の部分が省略されたと思われる。言い換えれば、「なべ」以下が消滅して、「つるつる」が、「すべる」の擬態語と誤解されるようになったのだろう。
 竹堂随筆と幼稚遊昔雛形の間に作られた戻橋背御摂と月花茲友鳥に、「なべ」以下の記述がないが、これには理由がある。両狂言共に、「かごめかごめ」を、子供の遊戯歌メドレーの一部として使用している。例えば、戻橋背御摂では、「子とり」と呼ばれる遊戯歌の次に「かごめかごめ」が謡われる。したがって、「かごめかごめ」のすべてが記述されなくても不思議はないのである。

第三節 絞り込みの結果
 以上から、江戸後期に限定されるが、「かごめかごめ」の原形は、次のようなものであったと考えられる。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に つるつる (つッペェつた つっぱいた つっぱった等多数)
なべのなべの底抜け (以下2通り)

 

第三章 「かごめかごめ」の試訳
 前二章でみた如く、「かごめかごめ」の原形は、

かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
夜明けの晩に
つるつる
なべのなべのそこぬけ

の固定部分と、「つるつる」、「なべ」に続く変動部分に分かれる。
 よって、まず、問題のない固定部分を訳す。次に、変動部分、特に、意味不明の「つるつる」以下に、どの語がふさわしいかを考える。

第一節 固定部分の訳
かごめ かごめ

 「かごめ」は「囲め」が語源だという説がある。柳田国男によれば、これは、「かがめ」の訛ったものだという。「囲め」ならば、輪を作る者に、「かがめ」ならば、輪の中の者に、指示していることになる。

かごの中の鳥は

 「かごめ」からの連想で「かご」、かごからの連想で「鳥」につながる。同時に、「かごの中の鳥」は、目隠しをしてしゃがんで輪の中にいる者を表す。

いついつ 出やる

 かごの鳥は、いつになったら、出られるのだろう。すなわち、輪の中にいる者は、いつになったら、輪の外に出られるのだろう。

夜明けの晩に
 いつになったら出られるかという問いを受けて、実際にはあり得ない表現で、いつ出られるか判らないことを表す。当時の「かごめかごめ」が、後ろに座る者を当てたか横にいる者を当てたかは不明だが、とにかく、当てなければ出られないので、出られる時期は特定できない。それを、夜明けの晩と表したのだろう。
 ただし、夜明けの晩を、夜明けでも、まだ暗い方を示すとする説がある。このような用法が一般的であったか否か、確認できないので、一応、採用は見送った。

つるつる
 すでに書いたように、このつるつるは、元来、鶴とは無縁である。これは、速やかに、円滑にという様子を表す擬態語である。
 同様の用例としては、千葉県流山市に残る「つるつる」という遊びがある。

   つるつる
   かぎになれ
   さおになれ
   たいころばちのふたになあれ

 これも、今日、鶴、鶴と解する者があるが、鶴が、鈎や竿や太鼓の撥になるというのは解せない。この遊びが、「鬼決めの後、手を繋いだ子供達が、鬼の回りで複雑な形を作っていく」ことを考えれば、「早く」という意味が妥当である。

なべのなべの底抜け
 「なべ」は「つる」からの連想である。ここで言う「つる」は、「鉉」、すなわち、鍋や鉄瓶などについている弓形、もしくは半円形の取っ手のこと。もし、前の「つるつる」が鶴の意なら、亀などが連想されたに違いない。

第2節 「つるつる」以下試訳 1
 いよいよ問題の「つるつる」以下である。「つるつる」以下の動詞から連想できる語は、「つっぱいる」もしくは「つっぱる」である。

つっぱいる
 日本国語大辞典によれば、「つっぱいる」は、「突き入る」の転化した語で、突入する、むりやり入り込む、さっと入るなどの意味がある。そして、同書は、この語の使用例として、戻橋背御摂の「かごめかごめ」を引用する。
 竹堂随筆の「つッペェつた」や大田南畝の「つるつるといる名にめでて」も、こちらを指していると思われる。
 しかし、この記述にしたがって「速やかに入り込む」と理解しても、問題が残る。誰が(何が)どこへ入り込むか不明なのである。無理を承知で推理すれば、次のふたつくらいが考えられようか。

仮説 1
 鶴は無関係ゆえ、可能性としては、周りを囲む者か中で屈む者しかない。中で屈む者は、既に籠の中の鳥であるから、残るのは、周りを囲む者しかない。では、周りを囲む者の誰かが、どこへ入り込むのか。考えられるのは籠しかない。すなわち、周りを囲む者が、輪の中(籠)へ入り込むのである。
 もし、そうだとすると、「かごめかごめ」は、今日とは違った遊び方だったということになる。今日の「かごめかごめ」は、

目隠しをして屈んだ子供の周りを、謡いながら回る
「後ろの正面だあれ」で、周りの者が、一斉に屈む
輪の中の者が、真後ろに屈んだ者を当てる

という遊びである。
 それが、周りを囲む者が輪の中に入るならば、

「つるつるつっぱいった」で、周りを囲んでいた者の一人が、輪の中へ入る
入った者を、目隠しした者が当てる

ということになる。

 この遊び方を承認できるならば、「つっぱいる」が正しいと言える。しかし、次のような理由で、この遊び方には否定的である。
1) この遊び方では、輪の中に入る者を、毎回、一人、決めておかなければならぬ。それでは、遊びが中断され、しかも、短時間で、すんなり決まるとも限らぬので煩わしい。
2) 大正以後、「後ろの正面だあれ」が付加されたが、この時、「かごめかごめ」は、後ろの正面に屈んだ者を当てる遊び方だったはずである。もし、輪の中へ、周りの誰か一人が入る遊び方ならば、別の文句を用意したに違いない。
3) 大正以後、遊び方まで改めたのならば、どこかに、形を変えて、古い遊びが残っていそうなものだが、その痕跡がない。

仮説 2
 これは、冒頭に紹介した胡蝶さんの説である。氏は、「つるつるつっぱいる」を、「周りの者が、目隠しをした者の後ろに入り込むことだ」と推理する。
 しかし、この遊び方も、誰が後ろに回り込むかを、毎回、決めなければならぬので、煩わしいこと、上に述べたのと同様である。また、後ろに回り込むなら、素直にそう言えばいいのであって、後ろに入り込むという必要はない。よって、これも、いささか無理な推理だと思われる。

 かくして、「つるつるつっぱいる」と解釈するには無理があるという結論に達する。

第3節 「つるつる」以下試訳 2
「つっぱる」
 「つっぱる」というのは、「突き張る」という語が元である。相撲の「突っ張り」、暴走族の「ツッパリ」、屁の「つっぱり」など、現在の意味と、ほとんど違わぬ。
 「つるつる」以下に「つっぱる」が続くとすると、「つっぱいる」以上に、意味不明になる。誰が、なぜ、誰(何)を相手に突っ張るのか、全く解らないのである。まさか、輪を作る者が、目隠しをして屈んだ者を突っ張ることもあるまい。

 かくして、「つるつるつっぱった」という解釈も、暗礁に乗り上げる。

 

第四章 結論
 「鶴と亀」はすべらなかった。しかし、「鶴と亀がすべった」に相当する部分の意味は、遂に明かにできなかった。「かごめかごめ」を記録した文献が、新たに発見されなければ、オーソドックスな手法で、これ以上の進展は望めぬだろう。残念ながら、これが、現在までの結論である。

 さりながら、これで諦めたわけではない。これは、あくまでも、第一部の結論である。第二部では、禁を破って、私の仮説を開陳することにする。

 

(2001/10/10) 初稿

(2002/11/18) 2稿

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かごめかごめ 2



最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

目次
第二部 「かごめかごめ」でそこまでやるか
  序章
  第一章 仮説 多様な表記の理由 
  第二章 失われた言葉
    第一節 失われた言葉の条件
    第二節 失われた言葉
       つくばふ
    第三節 「つくばうた」から「つッペェつた」へ
       つくばふとおつくべ
       つくばふとつくばる
       つくべった・つくべした
       つくべったからつッぺェつたへ
  第三章 「かごめかごめ」の原形
    第一節 意味の確認
    第二節 「なべ」以下
    第三節 「かごめかごめ」の原形
  終章
  参考文献

 

第二部 「かごめかごめ」でそこまでやるか
序章
 第一部で、現存する「かごめかごめ」の資料を検討し、「鶴と亀」がすべらなかったことを確認した。しかし、「鶴と亀がすべった」部分の原形は明らかにできなかった。

 第二部では、この結果を基に、更に、「かごめかごめ」の原形を追う。荒唐無稽にならぬよう、細心の注意は払うが、所詮は、ウグイス法伝の推理である。その点は、お含み置きいただきたい。

 

第一章 仮説 多様な表記の理由
 第一部第二章で記した如く、「つるつる」以下の表記は、実に多様であった。特に、戻橋背御摂と月花茲友鳥は、初演の時期が10年しか違わず、初演された小屋は、共に市村座である。それにもかかわらず、両者の表記は、「つっぱいる」と「つっぱる」という、明らかに別の言葉であった。
 しかも、第三章で記した如く、「つっぱいる」「つっぱる」のいずれを当て嵌めても、「かごめかごめ」全体の意味を明らかにできなかった。

 ここでは、このような結果に終わった理由を説明できる仮説を立てる。それは、
 「かごめかごめ」が記録された当時、既に、つるつる以下の意味は、誰にも解らなくなっていた。言い換えれば、記録された「つるつる」以下は、幼少の記憶や周囲の子供の遊びを頼りに、意味の解らぬ言葉(正確には音)を、解る言葉に置き換えて表記した結果である。
というものである。

 もちろん、他の可能性もあり得る。広い江戸のこと、採集した年代と場所が違えば、伝承も違う可能性がある。確かに、竹堂随筆と戻橋背御摂、月花茲友鳥と幼稚遊昔雛形については、それもあり得る。しかし、戻橋背御摂と月花茲友鳥の初演は、同じ市村座で、わずか10年の違いである。加えて、月花茲友鳥は戻橋背御摂を下敷きにして作られた浄瑠璃である。両者の違いは、採集した年代と場所の違いでは説明できない。
 実際、竹堂随筆、戻橋背御摂、月花茲友鳥に残る「子をとろ子とろ(子とり)」という遊戯歌では、かなりの時間経過にもかかわらず、「どの子が目好(づ)き 後の子が目好き」で一致している。意味が明瞭ならば、それほどの混乱は起こらないものなのである。

 以下、上記仮説に基づき、話を進める。


第二章 失われた言葉
 竹堂随筆には、宝暦・明和期の「かごめかごめ」が採集されたと考えられている。もし、前章の仮説が正しいとすれば、宝暦・明和期以前には、「つるつる」以下に、同書に採集された「つッペェつた」とは異なる言葉が続いたはずである。これを、便宜上、失われた言葉と呼ぼう。当然ながら、失われた時期は不明である。宝暦・明和の直前であったか、遙か以前であったかは特定できぬ。
 竹堂随筆の編者である行智は、一流の悉曇学者であった。悉曇学は、サンスクリット語の文字・音声を研究する学問である。明治以降、西欧の音声学、言語学の導入に伴って、急速に衰退したが、平安時代に日本に導入され、仏教のみならず、日本語の音声学的研究にも大きく寄与した。今日、仮名を「あいうえお」「あかさたな」の順に並べる「五十音図」は、悉曇学の影響を受けて、「いろは歌」以前に成立したと言われている。
 つまり、一流の悉曇学者であった行智は、母音、子音、音便変化、促音、撥音など、言葉の発音に関する基本的知識を持っていた。彼の「つッぺェつた」という表記は、かなり信用できるのである。加えて、彼の表記は、最も古い時代のものである。

 このことに留意しながら、失われた言葉を推理してみたい。

第一節 失われた言葉の条件
 膨大な言葉の海から、一語を探し出すのは至難の業である。よって、まず、失われた言葉の条件を考える。

 「かごめかごめ」は口伝ゆえ、失われた言葉は、宝暦・明和期以前のある時期に、誤って伝えられて消失したはずである。それゆえ、第一部第二章の一覧表で「すべった」の列にある言葉と、ある程度、似ていたと考えられる。

 そこで、第一部第二章の一覧表から、「すべった」の列につき、次の表を作成する。

つ ッ ぺェ つ た
つ ッ はい   た
つ る はい つ た
つ つ ぱ つ た
つ ッ ぺ ッ た
ツ ウ べ ッ た

 この表から読みとれる各語の共通点は、

  1) 文字数が五文字ないし六文字の動詞の過去形
  2) 第一文字は「つ」
  3) 第二文字の母音は「う」
  4) 第三文字の子音はローマ字表記で「h」「b」「p」
     母音は「あ」か「え」
  5) 最後から二文字目は「つ」「ッ」
  6) 最後の文字は「た」

である。

 よって、上記の条件に近い動詞で、「かごめかごめ」全体と調和する単語が、失われた言葉として相応しい。但し、前述したように、最も意識するべきは、竹堂随筆の「つッペェつた」である。

第二節 失われた言葉
つくばふ
 前節の条件を意識しつつ、古語辞典と江戸語辞典から、該当する語を探した結果、「つくばふ(つくばる)」という語に行き当たった。「つくばふ」というのは、「平伏する しゃがみこむ」という意味を持つ、ハ行四段活用の動詞である。古い広辞苑には、「突く+這う」とある。過去形(連用形)は、「つくばひた」だが、音便変化して「つくぼうた」となる。

 この語ならば、「かごめかごめ」の最後の動作に符合する。私は、この「つくばひた」こそ、「つるつる」に続く失われた言葉ではないかと考える。

第三節 「つくばふた」から「つッぺェつた」へ
 もしそうだとすれば、「つくばうた」から「つッぺェつた」へ変化したのか。その可能性はあるのか。ここでは、変化の可能性を検討する。

つくばふとおつくべ
 「おつくべ」は、インターネット上の報告に限っても、群馬、山梨、伊豆、長野、三重県尾鷲に存在した方言である。意味は、各地とも共通して「正座」である。語源は、「つくばふ」だとされている。実際、佐渡には「つくぼうてくれ(座ってくれ)」、富山には「おつくばい(正座)」という言葉が残っている。
 「おつくべ」が「つくばふ」から転じたとすれば、「つくばふ」という動詞の語幹が変化したことになる。先述した如く、「つくばふ」は、ハ行四段活用で、「つくば」が語幹である。本来ならば、語幹が変化するのは、連用形の音便変化に限られるはずである。
 それにもかかわらず、かなりの広範囲で、「つくべ」に変化している。これだけの地域で、自然に同じく変化するとは考えにくいゆえ、この変化は、中心地たる江戸で起こったと考えるべきであろう。
 つまり、過去のある時期に、江戸で、「つくばふ」という語の用法なり活用なりに乱れが生じて、「つくば」が「つくべ」に変化した可能性はあるのである。

つくばふとつくばる
 古語辞典には、「つくばふ」と共に「つくばる」という動詞が存在する。「つくばる」は、「つくばふ」と同じ語幹を持ち、ラ行ながら、「つくばふ」と同じ四段活用の動詞で、「つくばふ」と、ほぼ同じ意味を持つ。
 「つくばふ」と「つくばる」の内、今日、我々が動詞として継承したのは、「這いつくばる」など「つくばる」方である。「つくばふ」については、「つくばい(低い手水鉢)」等の名詞を残すだけである。
 これから想像するに、「つくばふ」という動詞は、過去のある時点で、活用や用法の乱れを生じた可能性がある。「つくべ」を語幹とする言葉に転じた後に、「つくばる」が台頭してきたとすれば、「つくばふ」「つくばる」いずれの四段活用からも外れた「つくべ」を語幹とする言葉が、方言やわらべうたという歴史の隘路に置き去りにされた可能性がある。

つくべった・つくべした
「つくべ」を語幹とする言葉が、どのようなものであったか。今となっては、想像力を働かせるしかない。「つくべえた」、「つくべった」、「つくべした」、「つくべひた」くらいであろうか。ここでは、暫定的に、「つくべった」としておく。もし、斯界の専門家から、別の意見が出れば、それに従えばよい。

つくべったからつッぺェつたへ
 「つッぺェつた」の原型が、「つくべった」であったとしたら、なぜ、「つッぺェつた」に変化し、意味が失われてしまったのか。その理由は、「つくべった」を長く延ばして歌ったからである。

 かごめかごめは、うしろの正面(真後ろ)の人間が誰かを当てる遊びである。ところが、かごめかごめを、最初から最後まで、同じテンポで歌うと、かなりの確率で、真後ろに人が来ない。最悪の場合は、二人の人間が繋いだ手が、真後ろに来る。これでは遊びにならぬ。そこで、最後の言葉を長く延ばして歌いながら、真後ろに人が来るように微調整を行う。これは、この遊びに必要不可欠な作業である。実際、竹堂随筆に記された「なべ」以下でも、最後は、「たーァも」と延ばしているし、今日、一般的な「うしろの正面」でも「だあれ」と延ばす。

 したがって、遊びの内容に変化がなければ、「つくべった」と歌われていた時代にも、この言葉を、長く延ばしていたはずである。

 そこで、試みに、「つくべった」を長く延ばしてみる。この時、「つーくーべーった」にはならない。日本語独特のリズム感覚から、「つーくべーった」となる。更に言えば、「く」は短く発音され、母音は、ほとんど聞こえない。「つくべった」を長く延ばして「つーk(もしくは小さいカタカナのク)べーった」と発音していたとしたら、行智が書き残した「つッぺェつた」との距離は、格段に縮まる。
 同様に、「つくばひた」を長く延ばしてみると、「つーk(小さなカタカナのク)ばーィた」となって、これは、「つっぱいた」に近づく。これは、戻橋背御摂の「つッはいた」に近い。ひょっとしたら、行智が慣れ親しんだ歌とは違う系統の「かごめかごめ」もあったのかもしれない。

 いずれにせよ、「つるつる」の後の言葉を長く延ばして歌えば、その言葉の表記は、元来の言葉の表記と違うものになる。そして、このように、本来の発音を越えて長く延ばして発音すれば、その言葉の意味は失われやすくなる。かごめのように、文字ではなく、子供の間で口承されるものは、なおさらである。

 以上から、「つくばうた」・「つくばひた」が、活用や語法の乱れによって「つくべった」に転じ、これを長く延ばす内に、「つッぺェつた」に転じて、その意味が失われたと考えられないだろうか。

第三章 「かごめかごめ」の原形
第一節 意味の確認
 「つるつる」以下に「つくばふ(つくばる)」という語を加えて、改めて、「かごめ」を訳すと、次のようになる。

かごめ かごめ 屈(かが)みなさい、屈みなさい (囲みなさい、囲みなさい)
かごの中の鳥は 輪の中にいる子は
いついつ 出やる いつになったら、出られるのだろう
夜明けの晩に いつかは判らないけれど
つるつる つくばうた
(輪を作る者は)、さっとしゃがんだよ

 これを見る限り、少なくとも、「つくばふ」の方が、「つっぱいる」「つっぱる」よりは、適当な語であろう。

第二節 「なべ」以下
 第一節の訳が正しいとすると、「つるつる つくばうた」で完結するゆえ、「なべのなべの底ぬけ」以下は無用である。つまり、「かごめかごめ」の原形には、「なべ」以下はなかった。
 ところが、「つるつる つくばうた」の意味が失われて、この句で、真後ろに、丁度、人が来るように微調整をしてしゃがむことができなくなってしまった。。そこで、竹堂随筆に見られる如く、「つる」から「なべ」を連想し、「底抜いてたも」の「たも」を長く延ばすことで、終了の合図にしたと考えるのである。
 同様のことは、明治以降にも行われた。『俚謡集拾遺』所収の「かごめかごめ」では、「なべ」以下が省略されているが、その後、全国に普及する以前に、「後ろの正面だあれ」が、付加されている。
 よって、「なべ」以下が付加されたと考えるのも、あながち、極論とは言えまい。

第三節 「かごめかごめ」の原形
 かくして、「かごめかごめ」の原形は、あっけないほど単純なものになった。

  かごめ かごめ
  かごの中の鳥は
  いついつ 出やる
  夜明けの晩に
  つるつるつくぼうた

 これだけである。所詮は子供の遊び歌。単純で当たり前。深読みすることに、何の意義があろう。

 

終章
 これをもって、長編駄文「かごめかごめ」は終了である。所詮、素人の遊びではあるが、今後、「かごめかごめ」にまつわる伝説や謎解きを読む上で、いささかなりとも役に立てば幸いである。
 

参考文献
 引用の公正と今後の便宜のため、今回、利用した文献をここに書き置く。江戸時代の文献については、原本を入手できないので、岩波書店刊の「國書總目録」から、活字に起こされたものを探して利用した。

竹堂随筆
書名 続日本歌謡集成||ゾクニホン カヨウ シュウセイ
著者 新間,進一(1917-)||シンマ, シンイチ
著者 志田,延義(1906-)||シダ, ノブヨシ
著者 浅野,建二(1915-)||アサノ, ケンジ
出版 東京 : 東京堂出版 , 1961-1964
注記 巻1:新間進一編 , 巻2,巻5:志田延義編 , 巻3,巻4:浅野建二編

 

四方のあか
書名 大田南畝全集||オオタナンポゼンシュウ
著者 大田南畝||オオタ, ナンポ
出版 岩波書店(1988)||イワナミショテン

 

俚謡集拾遺
書名 続日本歌謡集成||ゾクニホン カヨウ シュウセイ
著者 新間,進一(1917-)||シンマ, シンイチ
著者 志田,延義(1906-)||シダ, ノブヨシ
著者 浅野,建二(1915-)||アサノ, ケンジ
出版 東京 : 東京堂出版 , 1961-1964
注記 巻3:新間進一編 , 巻2,巻5:志田延義編 , 巻3,巻4:浅野建二編

 

戻橋背御摂
書名 大南北全集||ダイナンボク ゼンシュウ
著者 鶴屋,南北(1755-1829)||ツルヤ, ナンボク
著者 坪内,逍遥(1859-1935)||ツボウチ, ショウヨウ
著者 渥美,清太郎(1892-1959)||アツミ, セイタロウ
出版 東京 : 春陽堂 , 1925-1928
内容注記 第3巻:房橋背御攝. 心謎解色糸. 勝相撲浮名花触
注記 各巻木版錦絵折込み図, 挿図あり
巻号 第3巻




書名 鶴屋南北全集||ツルヤ ナンボク ゼンシュウ
著者 鶴屋,南北(1755-1829)||ツルヤ, ナンボク
著者 郡司,正勝(1913-)||グンジ, マサカツ
出版 東京 : 三一書房 , 1971-1974
注記 第五巻: お染久松色読販, 戻橋背御摂, 隅田川花御所染, 杜若艶色紫, 梅柳若葉加賀染, 怪談岩倉万之丞, 怪談鳴見絞, 解説(藤尾真一)




書名 鶴屋南北怪談狂言集||ツルヤ ナンボク カイダン キョウゲンシュウ
著者 鶴屋,南北(1755-1829)||ツルヤ, ナンボク
著者 渥美,清太郎(1892-1959)||アツミ, セイタロウ
出版 東京 : 春陽堂 , 1928.8
シリーズ名 日本戯曲全集:第11巻:歌舞伎篇


月花茲友鳥
書名 清元全集||キヨモト ゼンシュウ
著者 中内,蝶二||ナカウチ, チョウジ
著者 田村,西男||タムラ, ニシオ
出版 東京 : 日本音曲全集刊行會 , 1928.1
シリーズ名 日本音曲全集:3
件名 音曲||オンギョク




書名 日本歌謡集成||ニホン カヨウ シュウセイ
著者 高野, 辰之(1876-)||タカノ, タツユキ
出版 東京 : 春秋社 , 1928.6-1929.2
注記 子書誌に続編あり
注記 子書誌もセット配架
巻号 正編巻11:近世編

(2001/10/10) 初稿
(2002/11/18) 2稿



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で、この方が参考にされたというサイトの胡蝶さんの「A Square of Vanity」所収「かごめかごめ」歌詞考ですが、いまはデッドリンクになっていて見られません。そこでWayback Machine で調べてみます。

http://web.archive.org/web/*/http://www5.pobox.ne.jp/~kochou/koten/kagome.htm

ありがたいことに数年分の記録が残っています。早速一番最後のページを見てみることにします。見るときにはアメリカのサイトなので文字化けするのでページを全部表示させてから「インターネットエクスプローラーのメニューの表示→エンコード→シフトJIS」を選ぶと読めます。






「かごめかごめ」歌詞考
http://web.archive.org/web/20040804065619/http://www5.pobox.ne.jp/~kochou/koten/kagome.htm
子供の頃に特に疑問も持たずに口ずさんでいた歌の歌詞をふと思い出し、改めて考えてみると意味がよくわからず、何となく無気味な感じを覚える事がありませんか? 例えば「通りゃんせ」はその典型でしょうし、ここで扱ってみようとする「かごめかごめ」(以下「かごめ」)もその部類に入る一つであろうと思います。
「かごめ」の歌詞全体で何を言おうとしているのか、それは実は私にもまだよく理解出来ません。ただ、現在では意味が定かにわからなくなっている「部分」については、いささかの解明が可能なのではないか、と思うのです。古典文学の頁で扱うべき問題でもないかもしれませんが、まあ多少は古典も登場するので、その点は御容赦いただきましょう。
先ずは、掲示板でこの問題に関わるアンケートに御回答をお寄せ下さった方々、及び、もう1年も前になりますが、チャット等で同様の質問にお答え下さった方々に感謝いたします。


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さて、これから歌詞について考察していこうというわけですから、最初にきちんとその歌詞を呈示して置かなければなりません。私自身の記憶によれば次のような歌詞でした。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
大体においては皆さんの記憶している詞と同じだろうと思いますが、実はBOLDの部分には若干の異同があるようなんですよね。それでアンケートで特にこの箇所だけを取り上げて、お尋ねしてみたわけです。
異同は2箇所発生しているようです。それを以下の表に整理してみましょう。但し、表記については便宜的に統一させていただきましたので御了解下さい。

ドラゴンさん 鶴と亀と すぅべった
ゴンさん 鶴と亀が すぅべった
タッチさん 鶴と亀が すぅべった
ぴぐれっとさん 鶴と亀が つぅべった(betta)、つぅぺった(petta)
にゃこさん 鶴と亀が すぅべった
Apple-mintさん 鶴と亀が すぅべった
ファンクルさん 鶴と亀が すぅべった
しろさん 鶴と亀が すぅべった
ぱせりさん ? すぅべった

これらのデータから見ると、現在の平均的な歌詞は、「鶴と亀が滑った」であると数量的に判断して良さそうですね。
1点目については、ドラゴンさんと私だけが「鶴と亀と」でした。実は私もこの点は記憶が明瞭ではないのですが、一応少数側に付いておきましょう。2点目については、ぴぐれっとさんの回答だけが際立って個性的ですね。1点目の方はともかく、この2点目のぴぐれっとさんの回答にはちょっと驚かれた方もいるのではないでしょうか。

さて、今回のアンケートより以前に、個人的に同じ質問を3人の方にした事がありました。最初の頃掲示板にもよく見えていたMiltoさん、先日久しぶりにGUESTBOOKの方に書き込みを下さったりおさん、もうお一人はずっと以前に<まちこ>でお会いしていたのですが、最近はお見えにならないらしいMARSさんという方です。その時の結果を上と同じ形で表にして掲げてみますね。

Miltoさん 鶴と亀が つぅべった(betta)
りおさん 鶴と亀が すぅべった
MARSさん 鶴と亀が つぅべった(betta)

こうなります。つまり、アンケートの方では偶々ぴぐれっとさんお一人が「つぅべった」と答えられたのですが、実はどうやら「つぅべった」はそれ程珍しいわけでもないらしいのです。
こうしたものは、方言と同じように、地域によって個性が出るものかもしれません。そういう意味での正確なデータにするためには、現在の居住地のみならず、生まれ育った地域とか、世代とか、歌をどうやって知ったか等の細かい調査を要請されるし、抑々もっと大量のデータが必要になるわけで、私の手に負えそうもありません。でも、ぴぐれっとさんが河内ではこうだったとおっしゃっているのを手掛かりに、私が知っている範囲で言ってみると、Miltoさん・MARSさんのお二人は関西の方ではありません。Miltoさんはタッチさんのお近くで東北地方、MARSさんはApple-mintさんのお近く、関東南部の方です。一方、同じ河内で育ったにゃこさんのお答えは「滑った」だし、ゴンさんとドラゴンさんもそのお近くの筈ですよね。となると、或る特定の一地域だけの特殊な現象と見るのは難しいかもしれません。
一般論として、言葉の分布は昔は綺麗な分布図を描けたのでしょうが、最近では種々のメディアの発達で、情報がさまざまな形で流れ込んで来る所為もあって、かなり錯綜しているのではないかと思うのですが、上の問題がそれと関わるのかどうか、そのあたりはデータ不足で何とも言えません。


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さてアンケート結果については一先ず措いておいて、今度は別の角度から「かごめ」の歌詞について考えてみましょう。
この歌詞について考えるに際して、「かごめ」を扱っているHPでもないかと思って検索してみると、少なからずあるにはありました。但し、その殆どは現行の歌詞に基づきそれを暗号として読み解くといった類で、オカルト性を帯びた解釈に流れる傾向が強いんですよね。
現行のテクストを絶対的なものとしてその内部を読み解くという文芸研究の方法論も確かにあるのですが、私はその方法論をここに援用する事には否定的にならざるを得ません。何故ならば、上で見た通りテクストに揺れが生じているのですから。そのあたりの解明が先決だと思うのです。

それにしても問題の箇所は、本文の揺れもさりながら、意味的にもわかり難いと言うか、「鶴と亀が滑った」という文の意味は明確だとしても、それが歌詞全体の中で何を言おうとしているのか、わかり難い歌詞の中でも殊更に浮いた印象のある部分ですよね。何かヒントでも出ていないかと思い、『日本国語大辞典』を開いてみると、そこに歌詞全文が引用されていました。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀とつーぺった(注・petta) 後ろの正面だあれ?
あれあれ、1点目は少数派に一致、2点目はぴぐれっとさんが挙げられたもう一つの言い方に辛うじて一致するだけですね。『日本国語大辞典』がどうしてこの本文で記したのか、残念ながら根拠は書いてありません。
しかし、この本文では意味がさっぱりわかりませんよね。「つーぺった(petta)」、或いは「つーべった(betta)」にしても、最後の「た」は完了の助動詞でしょうが、動詞「つぺる」「つうぺる」「つべる」「つうべる」なんて辞書に載っていません。多分、河内の方言とかにもないだろうと思うのですが・・・・・。まさか「つーぺった」が名詞だなんて事はいくら何でもあり得ないだろうな(笑)。

ところで、『日本国語大辞典』には「かごめ」の歌詞の文献上最も古い例として、清元「月花茲友鳥」に引用されているものが挙げられています。清元だから成立は江戸時代後期でしょうか。その頃には「かごめ」は世間で流布していたのでしょうね。全文なのかどうかわかりませんが、とにかく引用されている部分を書いてみましょう。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる つるつるつるつっぱいた
途中まで全く同じだと思ったら、何と問題の箇所が全然違うんですよね。清元が勝手に歌詞を作り変えてしまったのでしょうか。いや、多分そうではないでしょう。やはり江戸後期の太田南畝の狂歌集『四方のあか』の中に

つるつるといふ名にめでてかごめかごめと歌ふ
とあるので、やはり当時の「かごめ」の歌詞は「鶴と亀」ではなくて「つるつるつる」或いは「つるつる」だったと想像されるし、歌舞伎「戻橋脊御摂」の中の

夜明けの晩に、つるつるつっはいた、木の葉笹原潜りくぐって・・・・・
も「かごめ」を踏まえたものである事は疑いないでしょう。どうやら江戸時代に世間に流布していた「かごめ」の歌詞の当該の箇所は、「つるつるつっぱいた」或いは「つるつるつるつっぱいた」であったと断定してよさそうですね。

さっきの「つぅぺった(petta)」「つぅべった(betta)」もわからない言葉ですが、この「つっぱいた」も馴染みのない言葉です。でも、こちらはちゃんと辞書に出ている言葉なんですよ。終止形は「つっぱいる」だから、現代の表記としては正しくは「つっぱいった」でしょうが。漢字を充てれば「突っ入る」つまり原型は「突き入る」で、促音便(「っ」)が生じるとそれに続く言葉がハ行の場合には半濁音化する(突き走る→つっぱしる、突き伏す→つっぷす、等)ために、「つっぱいる」となるわけですね。押し入るとか、さっと入るという意味の言葉です。
では、この「つっぱいた(つっぱいった)」と現代まで伝わっている歌詞とは直結するのでしょうか、それとも断絶があるのでしょうか。私は直結すると考えます。
時代劇なんかを見ていると、「入ってきな」を「へえってきな」と言ったりしますよね。「入る」の中に「ai」という母音が含まれていますが、「知らない」を「知らねえ」と言うように、特に関東では「ai」の母音がしばしば「e:」に変化する法則があり、「入る」についてもその法則が当てはまるわけです。とすると、「つっぱいった」は「つっぺえった」、「つっぱいた」ならば「つっぺえた」。歌の旋律に乗せて発語される事を考えれば、「つっぺえった」「つっぺえた」と「つぅぺった(petta)」の距離なんてほんの紙一重ではないですか。

厄介なのは寧ろもう一つの点かもしれません。「つるつる」「つるつるつる」が「鶴と亀」になる事は、当然ながら上のような音韻変化ではどうにも説明がつきません。どうして何時の間にか「亀」までが登場してしまったのでしょう?
江戸時代の歌詞を読んで、何だかちょっと奇妙だと思いませんか? 「つるつる」にしても「つるつるつる」にしても、どうして鶴をそんなに連呼しなければならないのでしょう。それと、この点は現代の歌詞でも同じですが、「籠の中の鳥」に関してはそれが何鳥であるかに関心を払っていないんですよね。その一方で鶴の方はちゃんと鳥の種類が限定されています。鳥に対する態度が一貫していませんよね(「籠の中の鳥」が鶴かどうか、という問題ではないですよ)。
「つるつる」の「つる」は本当に「鶴」なのでしょうか。ここに至っては、私はそうではないと判断せざるを得ません。おそらく、擬音語です。
現代語で「つるつる」という擬音語は、麺類でも食べている様子や滑りやすい様子くらいにしか用いないと思いますが、例えば「日はつるつると出づなんなり」というように、昔は動きの速い動作(現代語では「するする」でしょうか)の表現としても使いました。「つっぱいった」即ちさっと入る、すっと入り込むその動作の速さの擬音語ではないかと思うのです。
これで「つるつる、つっぱいた」の解釈は出来たと考えていいでしょう。「かごめ」は動作を伴う遊戯と一緒に歌われる歌です。真ん中で目をつぶってしゃがんでいる子供(籠の中の鳥)を何人もの子供達が取り囲み、そのうちの一人がしゃがんでいる子供の後ろに回る、その動作が「つるつる、つっぱいた」に相当するわけですね。
それにしても、どうして「つるつる」が鶴になり、おまけに亀までが出て来るようになってしまったのか、こればかりはよくわかりません。元の意味がわかりにくくなったために起こった改変、例えば後半部分の意味が解しにくくなったのに伴って「つる」が擬音語から離れて「鶴」と解され、語呂合わせ的に亀が取り合わせられたのだろうかと想像はしていますが。江戸時代と現代とを結ぶ文献、例えば明治時代や大正時代の「かごめ」の歌詞が判明すると、このあたりの経緯がもう少し明快にわかるのでしょうけれど・・・・・。


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アンケート結果に戻りましょう。
以上の推定によれば、先ず2点目については、ぴぐれっとさんが挙げられた一説の方の「つぅぺった(petta)」が江戸時代の原型を留めたものであり、その半濁音と濁音が混乱して3人が挙げた「つぅべった(betta)」に転じた。しかしそれでは言葉が意味を成さないところから、更に現代の主流である「すぅべった」へと変化していった、という変遷を想定する事が出来るでしょう。
それに対して1点目については、アンケート結果によれば、古態を残した本文は現代には伝わっていない事になりますね。結果が割れたのは「鶴と亀と」「鶴と亀が」でしたが、そこにも歴史的変遷があるとするならば、おそらく「鶴と亀と」が古い形でしょう。「鶴と亀と」は意味が不明確ですよね。何かが鶴と亀と一緒に滑ったとも読めるし、鶴と亀とが滑ったとも読めますが、いずれにしても言葉足らずです。ここでも上と同様に、意味を優先する事によって「鶴と亀が」に転じた、というプロセスが推定されるのではないでしょうか。
因みに、「鶴と亀と」「鶴と亀が」の「と」はwithの意味ですが、江戸時代の形を参照して言えば、元来は「つるつると」の「と」、つまり様態を表わしたものだったのかもしれません。

というわけで、現代で普通に歌われている「鶴と亀が滑った」という本文は、江戸時代の原型から離れて、意味的な整合性を優先した結果として生まれたものであると考えられるのです。確かに、その一文のみを取り上げれば表面的な意味は明確になりました。その代償として、歌詞全体の中での意味が見失われてしまったのですね。全体の文脈から浮かび上がり、まるで呪文のような文章になってしまったわけです。

ついでにもう一つ、アンケートのお答えの中でタッチさんが、「かごめ」の歌詞のわからない箇所として「夜明けの晩」と「後ろの正面」の二つを挙げておられたので、この部分についても少し自分なりの考えを記しておきましょう。
「晩」というのは夜のうちでも夕方に近い時点を指しますから、「夜明けの晩」という時間帯はあり得ません。従って、「夜明けの晩」「後ろの正面」ともに、反対の意味を持つ語を「の」で繋いであり得ない状況を指した、全く同じ構造を持つ部分という事になりますね。
上に掲げた江戸時代の歌詞を参照してみると、「後ろの正面」の方は出ていないのでわかりませんが、「夜明けの晩」についてはそこにも一字一句違わない形で見えていますよね。つまり「鶴と亀が滑った」とは異なり、変遷の結果意味が失われたのではなくて、こちらはおそらくは歌が発生した当初から内容の矛盾した歌詞であったと想像されるわけです。でも私は、この2箇所に関しては、言葉で言われている以上の意味、例えば何か寓意が込められている等と考える必要はないのではないかと思っています。
あまり品が良くないので恐縮ですが、こんな歌を御存知ではないですか? 歌詞に若干ヴァリエーションがあるようですが、私が記憶している形で挙げておきます。

五十五六の婆さんが、九十五六の孫連れて、黒い白馬跨って、前へ前へとバックした
「汽笛一声新橋の…」のメロディに乗せて歌う、いわゆる替え歌だったのですが、あらゆる部分が矛盾した歌詞内容です。つまりナンセンスそのものが歌われている歌なんですよね。そういうナンセンスさを喜ぶ傾向が子供の歌にあったりするのではないでしょうか(即座に他の例が思い浮かばないのが残念ですが)。「夜明けの晩」も「後ろの正面」も、今では歌詞全体のわからなさと相俟って何か無気味な印象を齎す要因になっているような感じがしますが、本来は滑稽さを表わしたものではなかったか、と思うのです。


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「鶴と亀が滑った」という、歌詞全体の中で何の脈絡も成さないフレーズも、元を辿れば、きちんと全文の中で意味を有し、遊戯の所作とも深く関わっていたのであろうと考えてみた次第です。しかし今や、その痕跡は「つぅぺった(petta)」或いは「つぅべった(betta)」に辛うじて窺えるだけです。意味のわからない語、ましてや「鶴と亀」では文全体としても意味を成さないこの痕跡が消え失せるのも、蓋し時間の問題でしょう。その時点で、原型に溯るための糸口も消えてなくなる事になります。古典を参照する事によって原型を知る事は出来たとしても、それと現行の形とを仲介する部分が希薄になりますからね。例えば、私がこの問題を調べてみる気になったのは、「つぅべった(betta)」という本文を知った事がきっかけでした。その本文に触れなければ、私もまた呪文を呪文としたまま気に留めなかっただろうと思います。
言葉が空間的・時間的広がりの中で変化していくのは宿命です。口承文芸もまた然りです。留めようと強制して留まるものでもありません。たとえ本来の本文に戻そうとしても、「つるつる」という擬音語や「突っ入る」という動詞を支えるバックボーンが既に失われているのですから。
でももしかすると、痕跡が消失するよりも以前に、「かごめ」という遊戯そのものが廃れて消失していくのかもしれませんね。(1999.8.26)


(猶、このページへの直リンクは固くお断りいたします。)


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しかしこの胡蝶さんと言う人は古典の先生なのでしょうか。考え方がしっかりしていて頼もしいです。しかしこういうすばらしいサイトも何らかの事情で続けられなくなって業績が後に残らないのも惜しい気がします。早く消したい汚点もありますが。無料ホームページサービスもいつ消えるかわからないけれど、ああいうシステムもあってもいいんじゃないだろうか。なんかそう思いました。しかしアメリカ人はすごいなぁ。勝手にやっていて断りなしっていうのがなんかブブーですが。ちなみにどうしても「過去を消したい人」はWaybackMachineに申請すれば過去のデータは消してもらえるみたいです。






しかしこの胡蝶さんのサイトの
追儺と鬼
というコラムで、

昔の宮中における、歳末の最も代表的な行事といえば追儺(ついな、おにやらひ)でしょう。大晦日だという事もあって、ふとそれに関する話を扱ってみたくなったのですが、さて今日中に書き終える事が出来るかどうか。しかし、よりによって大晦日にHPにアップするための記事なんか書いている私も、相当に酔狂なのかもしれない・・・・・。
あ、そうそう、今回は初の図版付きです。



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追儺は、今の行事で言えば節分に相当します。そもそも節分とは立春・立夏・立秋・立冬の前日を指し、後に主として立春の前日を指すようになりました。そしてその日に宮中等で行なわれていた厄払いの儀式が追儺であり、現在二月三日の節分に豆を撒いて鬼を退散させるのは言わばその名残という事になります。片や歳末の行事、片や年が明けて暫く経った二月の行事となり、性格付けが変わってしまったような印象を与えますが、それは要するに太陰暦と太陽暦における立春の日付の相違に起因するわけですね。
追儺の始まりは慶雲2年若しくは3年、西暦705,6年とされており、非常に歴史の長い行事と言えるでしょう。初期の頃の追儺の儀式がどのようなものであったかは、文献が残っていないので詳細が判明しませんが、平安時代の儀式の様子は文献によってその大凡が辿れるようです。
儀式の主役に相当するのが、鬼を払う先鋒を務める「方相」「方相氏」と呼ばれる人です。宮中の中務省に属する大舎人の中から特に屈強な体躯の持ち主が選ばれたようで、四つ目の黄金の面を着け、盾と鉾を持ち、真っ赤な衣装(或いは上が黒、下が赤とも)を纏っています。その方相氏に従う童が「シン子(シンの字は人偏に辰)」、『延喜式』には8人とありますが、時代によって人数は変化したようです(「シン子」では格好が悪いので、便宜的に「童」と言い換えますね)。
さて、童や更にその後に桃の木の弓と葦の矢を持った親王・公卿等を従えた方相氏は、内裏の東西南北の四つの門に向かいます。最初に陰陽師が呪文を読み上げ、続いて方相氏が鉾で盾を3度叩きながら厄鬼を払う声を上げ、童や親王・公卿以下の人々がそれに唱和する、時代によって推移はあるにしても、おおよそこんな手順で行なわれていたようです。


ところで、平安時代中期、西暦1000年前後に成立した『政事要略』という本に、追儺の絵が描かれています。その「方相氏」「厄鬼」の絵を掲げておきました。

左側が鬼ですが、追い払われる場面である所為なのか、何だか妙に情けない姿に見えますねえ。鬼らしからぬ、というか。あれあれ、そう言えばこの鬼、肝腎の角がありませんよ。今一つ鬼らしく見えないのはそのためでしょう。下っ端の鬼なのでしょうか。いや、そうとも限らないと思いますよ。
私達の感覚では角は鬼の象徴のようなものですが、実は、この時代の鬼には角がなかったのかもしれないのです。鬼に角が生えていた徴証が容易に見出せないのです。一例として、平安時代初期に成立した説話集『日本霊異記』所載の話を紹介してみましょう。
怪力無双で知られた童子(後に出家して道場法師と名乗ります)が元興寺の堂童子となります。この頃元興寺では夜な夜な鬼が現われ、そのために童子達が殺されていたのですが、その怪力の童子が鬼を捕らえる事になりました。童子はその堂の四隅に明かりを据え、4人の仲間に対して、自分が鬼を捕らえた時に明かりの蓋を開いて照らすように言い置きます。夜になり、現われた鬼の頭髪をむずと捕らえた童子は、手筈通り明かりで照らさせようとしたのですが、4人は恐怖のあまりに正体を失い、明かりの蓋を開ける事も出来ません。仕方なく童子は、堂の四隅にそのまま鬼を引き摺って自ら明かりの蓋を開けます。そうこうするうちに朝が近付いて鬼は強引に逃げ去り、童子の手には鬼の頭皮が残された、という話です。
この話の中で、鬼の角の事は全く言及されていません。鬼の頭部の事が話題になっているにも拘わらず、です。穿って言えば、角があれば童子は角を掴んだかもしれません。頭髪が話題になりながら、角には一言も触れられていない、それは角がなかったからではないでしょうか。
もう一つ、鎌倉時代に成立したお馴染みの『宇治拾遺物語』の中に見える話を、今度は原文のままで挙げてみましょう。

今は昔、修行者のありけるが、津の国まで行きたりけるに、日暮れて、竜泉寺とて大きなる寺のふりたるが、人もなき、ありけり。これは人宿らぬ所といへども、そのあたりにまた宿るべき所なかりければ、「いかがせん」と思ひて、笈うちおろして内に入りてゐたり。不動の咒を唱へゐたるに、夜中ばかりにやなりぬらんと思ふ程に、人々の声あまたして、来る音すなり。見れば手ごとに火をともして、百人ばかり、この堂のうちに来つどひたり。近くて見れば、目一つつきたるなど様々なり。人にもあらず、あさましき物どもなり。或いは角おひたり。頭もえもいはず恐ろしげなる物どもなり。恐ろしと思へども、すべきやうもなくてゐたれば、おのおのみなゐぬ。(以下略)
要するに修行者が百鬼夜行に遭遇した話なのですが、ここには確かに角の生えた鬼が登場していますね。しかし「或いは角おひたり」、つまり角が生えた鬼は一部に過ぎないのです。ここでも、角が生えている事が鬼の必要条件ではない、という結論を導かざるを得ません。
鬼と角の関係については、本来古典文学のみならず絵画等をも併せて考察されるべきでしょうし、多分既に詳しい研究がなされているでしょう。鬼を扱ったHPというのも如何にもありそうに思われますので、ここでは、鬼と角の関係は平安・鎌倉時代においては決して不可分のものではなかった、という大雑把な結論で留めておきましょう。

さて、話を追儺に戻します。平安時代後期の政治家・学者である大江匡房の『江家次第』にも追儺の様子が描かれているので、その一部を引用してみましょう。

方相先作儺声、以戈叩楯三箇度、群臣相承和呼追之。方相経明義・仙華門、出北廊戸。上卿以下随方相後、度御前、出自滝口戸。殿上人於長橋内射方相。
実はここにおかしな記述がある事にお気付きでしょうか。「殿上人長橋の内に於いて方相を射る」とあるのです。鬼を払う先鋒として「方相先作儺声、以戈叩楯三箇度」と型通りの儀式を終えた方相氏が、殿上人達に射られる(無論本物の矢で射られるのではなく、桃の弓・葦の矢で射られるのですが)とは、一体どういうわけなのでしょうか。これではまるで、鬼を払った筈の方相氏が今度は鬼と見做されているみたいですよね。『江家次第』の勘違いなのでしょうか。
建武中興で知られる後醍醐天皇が『建武年中行事』という故実書を残していますが、そこにも追儺に関する記述が見えます。

大舎人寮鬼をつとむ。陰陽寮の祭文もちて南殿のへんにつきて読む。上卿以下これを追ふ。殿上人ども、御殿の方に立ちて桃の弓にて射る。
これに拠れば、儀式に、今までの引用には明記されていなかった鬼役の人が登場している事になりますね。しかしその鬼役の所作等は上で既に読んだ方相氏のそれに酷似したものばかりです。そして更に時代が下った室町時代の『公事根源』には、

今日はなやらふ夜なれば、大舎人寮鬼をつとめ、陰陽寮祭文をもて南殿の辺につきて読む。上卿以下これを追ふ。殿上人ども、御殿の方に立ちて、桃の弓葦の矢にて射る。(中略)追儺といふは年中の疫気をはらふ心なり。鬼といふは方相氏の事なり。四目ありておそろしげなる面をきて、手に盾・鉾を持つ。
と、ここに至っては「鬼=方相氏」と何の躊躇もなく断言されているのです。「四目ありて・・・」と具体的に記されるその「鬼」の出で立ちも間違いなく上で述べた方相氏の姿そのものですよね。


というわけで、かつて鬼を払う先鋒であった筈の方相氏は、時の経過の中で、おかしな事に、その所作に鬼払いの動作を残しながらも何故か鬼そのものに変身してしまったのです。それが何を象徴するのか、例えば「鬼の不在」といった意識に関わるものなのかどうか、そのあたりについては俄かには回答を導き得ませんが。
ところで、上に『政事要略』の追儺の方相氏と鬼の絵を掲げましたが、そこでははっきりと見えなかった方相氏の顔の部分をクローズアップしてもう一度掲げてみましょう。「四つ目ありて、おそろしげなる」と評された面の様子も今度はよく見えますよね。
さて、この平安時代中期における「方相氏」の顔を見ながら、皆さんにちょっと考えていただきたいのです。私達はこの「方相氏」の顔に見覚えがないでしょうか。よくお馴染みの筈の何かに似ていると思いませんか? 四つ目はともかくとして、角といい牙といい・・・・・。そしてそれが何を示唆するのか・・・・・。(2000.1.1)




で、鬼を退治している大将が、今現代言われている鬼にそっくりっていうのが面白いなぁと思いました。まあ最初はもてはやされていた源の義経が兄に討たれることもなくその後もずっと生きつづけたら多分殺人鬼にはなっていただろうし、なんでも過ぎたるは及ばざるが如し、才能がありすぎるのもなんだよなとか思いました。




さてこの二つのサイトからわかったのは

1.よあけのばんにつるとかめがすべった

というところが実は

夜明けの晩に つるつる (つッペェつた つっぱいた つっぱった等多数)

だったこと。

2.関東地方を中心に広まっていること。

3.つるつるはするするでつっぱいたはつきとばしたという意味であること

です。

で、ここで煮詰まって、いろいろほかのことで遊んだりしてたのですが、ひょんなことから七福神を調べることにました。
七福神っていうのは宝船にのった神様が楽しそうな絵しか見たことがないので、よく知らなかったのですが、

宝船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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宝船
鳥山石燕『画図百器徒然袋』宝船(たからぶね)とは、七福神が乗る宝物を積み込んだ帆船、または、その様子を描いた図のこと。新年をあらわす季語でもある。

宝船には珊瑚・金銀・宝石など、様々な宝物が積み込まれているという。そのため宝船はおめでたい船とされ、この船に七福神が乗っている様子をかたどった置物などが縁起物として親しまれている。その帆には「獏」の字が書かれることもある。

また、宝船が描かれた図には

なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな
(永き世の遠の眠りのみな目ざめ波乗り船の音のよきかな)
という回文歌などが書かれることがあり、正月の2日にその絵を枕の下に入れて寝ると良い初夢を見ることができると言われている。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E8%88%B9" より作成
カテゴリ: 神話・伝説の船 | 民間信仰 | 縁起物


獏という文字と回文についてはいままで知りませんでした。
回文とは「後ろからよむ」ことではじめてその楽しさがわかる文章のようです。
獏は夢を食うという話しかしらなかったのでこれまた調べてみました。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
この項目では人の夢を喰うとされる架空の動物について記述しています。奇蹄目バク科の哺乳類についてはバクを、その他の獏についてはばくをご覧ください。

獏(葛飾北斎画)獏(ばく)は、人の夢を喰って生きると言われる中国から日本へ伝わった伝説の生物。この場合の夢は将来の希望の意味ではなくレム睡眠中にみる夢である。

体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎にそれぞれ似ているとされるが、その昔に神が動物を創造した際に、余った半端物を用いて獏を創造したためと言われている。


奇蹄目バク科の哺乳類で実際に存在する動物も獏と呼ばれる。その動物についてはバクを参照。


なお、京都大学名誉教授 林巳奈夫の書いた『神と獣の紋様学―中国古代の神がみ―』によれば、古代中国の遺跡からバクをかたどったと見られる青銅器が出土している。 このことから、古代中国には象や犀などと同じように現在は絶滅してしまったが野生のバクがいた可能性が高い。であるから、一般的には伝説上の獏と生物学上のバクは無関係であると考えられているが、もともと同じものを指していたものが中国では絶滅したために伝説化した可能性も否定はできない。


妖怪の漠:善良な獏は悪夢を喰い人を助けるが、悪質な獏は夢ごと精神(または魂)を吸い取ってしまう。 よって、人間の精神崩壊は獏の仕業とも言われているが、 悪質な獏は実は漠ではなく、夢半ばにして死んでいった霊たちが集まり、獏の姿となって 見えるだけであり、本来の獏は善良な妖怪である。

悪夢をみている時に(意識があれば)夢の中で「獏!」と呼ぶと来て助けてくれる。 その時、夢の中に紫色の煙が発生する。それは、悪夢が紫色の煙となって獏に吸い込まれていくからである。

この項目「獏」は、調べものの参考にはなる可能性がありますが、まだ書きかけの項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています。
このテンプレートは分野別のスタブテンプレート(Wikipedia:スタブカテゴリ参照)に変更することが望まれています。ただし、サーバー負荷軽減のため、スタブテンプレートの変更は加筆とともに行ってください。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%8F" より作成
カテゴリ: スタブ | 伝説の生物



なんか寄せ集めのキマイラみたいな動物ですね。
夢の中で呼び出すと紫の煙が発生するというのは知りませんでした。
ほかに獏についてなにか無いかと思ってGoogleで調べると

獏鸚 (海野 十三)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3518.html
に辿り着きました。
頭がバクで体がオウムの動物が本当はなんであるかを調べる探偵物なのですが、ネタバレになってしまうのでなんですが、暗号の解き方についていろいろかかれてあります。でその暗号の解き方が、後ろから読んだだけではわからない。ローマ字にして後ろから再生してみろ、とこうです。

そういえば何年か前にテレビのバラエティー番組でおばあさんが後ろにスキップしながらなにか妙な歌を歌うのを録画しておいて、逆回しに再生するとちゃんと歌になっているというのがありましたっけ。自分も小さい頃にたしかリールを逆回転させて遊んだような記憶もあります。

で、いま仕入れたこの暗号の解き方をなやんでいたかごめかごめにすぐ当てはめてしまいます。

かごめかごめかごのなかのとりはいついつねやる
kagomekagomekagononakanotorihaituituneyaru

多分ここまでが本文であとは「ぎゃくにしろぎゃくにしろ」という子供の囃子声だとします。

urayenutiutiahirotonakanonogakemogakemogak

うらえんうちうちあひろとなかののがけ
もがけもが(け?)

なにかこれは私の想像で荒唐無稽な暗号解読になってしまうのかもしれないのですが、
なんとなく

暗い崖の上に立っている人の背後にすっと忍び寄った者が突き落とした

それはまるで鳥が飛び立つような


そんな情景が浮かび上がってくるような気がして仕方がありません。

後ろに誰がたっているのがわかるのはただ鬼のみ。

うがった見方をすれば、かごめかごめとは「後ろにいる人間を知ることのできる」子供を探し出す儀式

探してどうするんだろう。復讐でもするんだろうか。それとも一人ずつ突き落として調べるのか。

しかし最後の文章が「もがけもがけ」と呪っているんだとしたら、そしてそれをなにも知らない子供にまで歌わせねば気が済まない、それはとても悲しいことですね。人を恨むのはつらいですから。同情はしませんが。合掌。

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