本について思うこと

 中学1年の時教室の本棚に『復活の日』というSFの本があった。とてもスケールが大きくて面白い話だったので映画になると聞いたときにはものすごく期待していた。しかし、なぜ日本の映画はいい作品でも原作とは違うものを創るのだろう。そもそも、その作品が映画になったのは、その原作を買ってくれた読者が大勢いたからじゃないのか。その読者をいなかったかのように扱って、独自のストーリーを作って映画を撮るなら、全然別の題名にすればいいじゃないか。それとも原作のまま作るのは何か問題があるのか。

 大きくなってからいつか、その出版社兼映画会社(?こういう表現でよいのだろうか)に質問の手紙を送ろうと心に決めていたのだが、その会社は映画を撮らなくなったので、結局別の出版社に別の形で問いかけのようなものをしてみたが(具体的にいうと映像ものを創るなら原作どおりに創ってくださいというお願いの手紙をがんがん送った。若いっていいなぁ。)理由はわからずじまいだった。

 でもいっぱいいい作品があると思っているので、いつになるかわからないが自分で気の済むようなものを人に頼むのではなく(目標が合えば共同作業でもいいけど)コストをかけず身の丈にあった方法で自分で創って作品を観られる日が来ればいいなぁとは思っている。


都市伝説

以前、ある心理学系の本の一説で「幽霊は最先端の仕事場に出る」というのを読んだことがある。
ある夜中にタクシーの運転手が一人の若い女の人を乗せて走り始めた。もう頃合かなと思ってお客さんに呼びかけたところ後ろには誰も乗ってなくてシートが濡れていた。

そのころタクシーは流行り始めた乗り物で、古臭さとは無縁のものだったけれど、出たのだ。最近流行りの都市伝説もよくよく聞いてみると、今、最先端の携帯電話によく出る。そういうのが出たり、そういう目にあってなおかつ自分が恨まれるようなことをしていなければ、「もしかして自分って最先端?」かもしれない。また、幽霊がでた〜という話を聞いたら、その職場って最先端なんだな〜と思う。(ただし、そういう噂が立つのが重要であって、実際に幽霊にあったかどうかは問題ではなし。)

水道の思い出

子供の頃食器洗いの担当にされた。受験勉強なんかもあってかなり不満だった。時間ないのに何でやらなければならないのだろう。

洗うとき水道の蛇口を思いっきり全開にして洗っていた。その方が早く洗剤が流れ落ちるような気がしたのだ。

会社勤めをするようになって、同僚においしい串カツの店があるからランチ食べに行こうと誘われてその店を訪れた。
女の人が二人で切り盛りしている何というか『お袋の味』みたいな雰囲気を出しているお店だった。
カウンター席に着いたのでランチが出てくる間お店の中を眺めていた。 大きな天ぷら鍋に程よく入った油がグツグツいっている。こりゃぁ〜掃除が大変だろう。 そばに有った炊飯器に目を移す。おやだいぶ古い型の炊飯器なのに、新品みたいにピカピカだ。 へぇ〜と感心していたら、食器を洗い始めた。 お客さんの会話に障りのないように水道の水の流れを細くして洗っていた。 衝撃だった。こんなに水量少なくて洗えるの?

家でも同じようにして洗ってみた。なんだか水量が多い時よりも丁寧に洗えるような気がした。 百聞は一見にしかずだと思った。

ジャングルジムの思い出

子どもの頃住んでいたところは人の出入りの多い地区だった。転校生が年に何人も入ったり、引っ越したり(自分もその中の一人だ)、常に知らない人がいて友達との別れがある所だった。

ある日、友達といつもの公園に行くとジャングルジムに知らない子達が5〜6人登ってこちらを見ていた。私達は知らない人でも遊んでいるうちに誰だかわかるのが普通だったのでそのときも別に何とも思わず名前も聞かず遊びのルールをその場で決めて一緒に日暮れまで目一杯遊んだ。帰り際に彼女等の一番年長らしい子がとっても楽しかったと意味ありげにいったので大げさだなぁと思ったがその後彼女等を見ることはなかった。

今にして思えば、見知らぬ人と一緒に何かするのはとても大変なことだと思う。
インターネットでホームページをいくつか作っているけれど人通りの多いところとここのように全然なところがあって、人通りの多いところは掲示板に書き込んでもリンクをお願いしてもすんなりと行く。

確率と人生

 前向きな人はいい仕事がよく入るとか、運のいい人だけを採用する会社があるなどの話を耳にすることがある。
 前向きだろうが後ろ向きだろうが、毎日朝起きて、朝食を詰め込んで、満員電車に揺られて会社に着いて、得意先まわりや事務処理などのルーティンワークを終えて家に帰って夕食を食べて寝てまた朝が来る決まった生活にはあまり関係が無いような気がする。何を考えようと右のコップの水を左のコップに移し替える作業は楽に出来るじゃないか。

 ある実験をしてみた。複数の占いサイトで一年間毎日欠かさずタロットカードを引いてみた。
 タロットカードの占いサイトというのはご存知の方も多いと思うので書いてしまいますが、どこのサイトも乱数を発生させて確率が『均等』になるようにカードが選ばれるプログラムが組まれているので、(知らなかった人は夢を壊してごめんなさい。)『常識的(私達が学校で習ってきたサイコロの目は周りの環境と『関係なく』常に1/6の確率で各々出現するような)』に考えれば『当たるわけが無い。』はずだ。
 一年間毎日、引いたカードを保存しながら引き続けた結果、前向きな考えの時に引いたものは概ねいいカードがでて、消極的や後ろ向きの考えで引いたときは悪いカードがよく出た。  被験者が自分一人なので一人分しかないが、このデータで判断すると、前向きの考え方をするといい仕事にぶち当たる『確率』が上がり、後ろ向きの考え方をすると悪い仕事にぶち当たる『確率』が上がってしまうということになる。
 そこから推測するとよく当たる占い師さんのサイトはその運営者の考え方が前向きなのでいい結果が出る(お客さんが納得できる結果が出るのが運営者にとっていい結果)『確率』が上がっているという見方も出来る。

 努力や勉強なしにいい仕事が出来るかというと必要条件を満たしていないので無理だが、人の縁は会うか会わないかの『確率』だと思うので先の例のコップの水を移し替えるような作業でも同じ考えるならいいことを考えるようにしたほうがいい人生が送れる『確率』が高くなるのかも知れない。

 ちなみに、私はコンサルタントでも占い師さんでもない一般人なのでご相談などは受け付けていません。悪しからず。 

古いものと新しいもの

 私は新しいものが大好きだ。最先端なことはいち早く知っていないと我慢できない性質だ。ホンダの二足歩行ロボットのプロトタイプの実演があると聞けば鈴鹿まで駆けつけるし、パソコンの最新情報が手に入ると聞けば幕張まで駆けつける。反面古いものはなにか受け付けないことが多い。

昔の人は偉かった

よくそのことは知っているのに何かあると反発してしまう。

昔の人は確かに偉かった。しかしその人と同じように判断して同じように行動したら、私の人生は?

クラシックを聴けだのそういう類のことを強要されると自己存在理由を脅かされているような危険を感じてしまうのかも知れない。

もし、クローン人間ができてしまうような未来がきてしまったら、できる限り、「君は君の人生を歩んでいいんだよ」と言ってあげようと思う今日この頃であった。 

蜘蛛の糸

 蜘蛛(くも)の糸

芥川龍之介

  一

 ある日の事でございます。御釈迦様(おしやかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮(はす)の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色(きんいろ)の蕊(ずい)からは、何とも云えない好(よ)い匂(におい)が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇(おたたず)みになって、水の面(おもて)を蔽(おお)っている蓮の葉の間から、ふと下の容子(ようす)を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄(じごく)の底に当って居りますから、水晶(すいしよう)のような水を透き徹して、三途(さんず)の河や針の山の景色が、丁度覗(のぞ)き眼鏡(めがね)を見るように、はっきりと見えるのでございます。

 するとその地獄の底に、陀多(かんだた)と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢(うごめ)いている姿が、御眼に止まりました。この陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛(くも)が一匹、路ばたを這(は)って行くのが見えました。そこで陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報(むくい)には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠(ひすい)のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮(しらはす)の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下(おろ)しなさいました。

  二

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた陀多(かんだた)でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微(かすか)な嘆息(たんそく)ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦(せめく)に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の陀多も、やはり血の池の血に咽(むせ)びながら、まるで死にかかった蛙(かわず)のように、ただもがいてばかり居りました。

 ところがある時の事でございます。何気(なにげ)なく陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛(くも)の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。陀多はこれを見ると、思わず手を拍(う)って喜びました。この糸に縋(すが)りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。

 こう思いましたから陀多(かんだた)は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。

 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦(あせ)って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる中(うち)に、とうとう陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。

 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限(かずかぎり)もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻(あり)の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦(ばか)のように大きな口を開(あ)いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断(き)れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数(にんず)の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断(き)れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎(かんじん)な自分までも、元の地獄へ逆落(さかおと)しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這(は)い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。

 そこで陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。

 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断(き)れました。ですから陀多もたまりません。あっと云う間(ま)もなく風を切って、独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。

 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

  三

 御釈迦様(おしやかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちに立って、この一部始終(しじゆう)をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて陀多(かんだた)が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着(とんじやく)致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足(おみあし)のまわりに、ゆらゆら萼(うてな)を動かして、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好(よ)い匂が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。

底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜11月に刊行
入力:平山誠、野口英司
校正:もりみつじゅんじ
ファイル作成:もりみつじゅんじ
1997年11月10日公開
1999年7月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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青空文庫さん収録の蜘蛛の糸を引用させていただきました。天国が成功、カンダタが新製品を発売する人、下から上ってくる罪人が後発の同業者に見立てるとなかなか唸ってしまうような光景です。利益を独り占めしようとすると市場のパイが小さくなって結局共倒れ・・・。なのはわかるんだけど、皆で分け合っているといつまでも豊かにならないし、どうしたらいいんでしょうね。これも研究していきたいテーマの一つです。

願えば叶う

願えば叶うと最近良く耳にする。人は頭の中に描いた通りのモノを実現できるんだとか。そこでふと受給年齢が後退していく年金のことが頭をよぎった。

  年金は戦争が終わった後に生き残った若い働き手が、今は何も無くなって苦しいけれど自分が年を取ったときには何の生活の心配もしないでいいような暮らしがしたい。そのためには今頑張って働いて老後は余裕のある暮らしを絶対するぞということで作ったのではないだろうか。

  すると彼らの望みは叶ったのだ。 

  そして、戦後に生まれた世代は年金がなかなかもらえない。戦後生まれは若いときに、年金が欲しいという強い信念も必然性も無かったのかもしれない。 

  驚異の三段論法で根拠も何もない。しかし、どうせ描くのならいい夢を描いたほうがいいのかも知れないと思った。 


秋真っ只中


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