佐々木


佐々木さん、どうかしましたか?佐々木さん?
佐々木は目の前の同僚の顔をしばらくぼんやり眺めてから我に返ったように目をしば
たいた。
いやなんでもないよ。
そう彼が答えると、同僚は
そうですか、それじゃ私はお先に失礼します。また明日。
そう言ってフロアーの出口へと向かった。
佐々木も手を挙げつつ
また明日。
と言いかけたが言葉が出なかった。
また明日。
明日・・・か。
ある日、佐々木はいつものように目覚ましのベルを止め、今日のスケジュールを確認
し、歯を磨き、妻の奈津子が作った朝食を食べ、家を出た。いつものように駅へ歩い
ていき、ホームのいつもの場所で電車を待ち、同じ顔ぶれといっしょに揺られながら、
こんな毎日がいつまでも続くんだ定年まで。
と思った。
そういえば、今日の朝食の献立は昨日と同じだったな。
料理の得意な奈津子は毎日毎日工夫するのが楽しいらしく、いろいろレパートリーが
豊富だった。そして結婚してからいままで同じ料理が続けて二日と出たことがなかっ
た。
とうとうあいつもネタが尽きたか。
会社の帰りに本屋へ寄っていって料理の本でも買ってやろうかなどと思いつつ、改札
を抜け、徒歩3分の会社へ向かった。
道を歩いていくと、犬を三匹連れた顔立ちのはっきりした女の人がやってきた。三匹
の犬はおとなしくリーシュにつながれて歩いていたが、彼が近づく5メートルほど先
で彼の後ろから追い越していった男が連れている犬に吠えかかった。男と犬はさっさ
と行ってしまったのだが、女の人は自分の飼い犬三匹に引きずられて大変なことにな
っていたので見るに見かねて佐々木は彼女のリーシュを引き取ってから犬をなだめた。
すみません。
女の人があやまるのに答えて、
いえ、別にかまいませんよ。でも昨日も引きずられてたじゃないですか。なにか方法
を考えたほうがいいですよ。
といいつつ会社を目指し歩き始めた。
女の人が
えっ、昨日も?
と言ったのには気づかなかった。
会社に着くといつもの様に席について、デスクに置いてあるパソコンのスイッチを入
れた。
社内メールをチェックするとどれも昨日読んだものなのに新着になっている。
最近、電算課でサーバーがどうのウイルスがどうの言っていたから、またトラぶって
るな。
佐々木がつぶやくといま出社してきた隣の席の近藤が
えっなになに、またトラぶってるの?こうたびたびじゃこまるよね〜。
といいつつ自分のパソコンの電源を入れメールをチェックし始めた。
僕のパソコンはなんともなさそうだな〜。どういう症状なの?
と聞いてきたので、
昨日のメールが今日また新着で来ているんだ。今日は荒木社の担当者が来るから昨日
企画部へ資料を朝いち送ってくれって頼んだのに困るんだよなぁ。
と答えた。すると近藤は
え?荒木社の担当者が来るのは明日だよ。
と答えた。
何言っているんだ、今日は9月12日だろ。今朝家を出る前にスケジュールを確認し
たんだ。
といったのに近藤は驚きあきれて、
今日は9月11日ですよ。
と答えた。そして、近藤の隣の席の山田に確認すると、山田の周りにいた、女子社員
も一緒になって今日は11日だと答えた。
そんなばかな。きっと担がれているのに違いない。
佐々木はいつも時間合わせに利用しているJST Clockのサイトを開けた。
JST Clock 
http://www2.nict.go.jp/cgi-bin/JST.pl
日本標準時(JST)2003年9月11日8:30:23
そのとき追い討ちをかけるように応接室にあるテレビから
それでは今日9月11日のお天気の模様をお伝えします・・・。
というアナウンサーの声が聞こえてきた・・・。
今日は9月11日ぃぃぃぃ。
しかし、ここで取り乱すような佐々木ではない。
彼はいままで何事も無難にやり過ごしてきたのだ。
きっとちょっとした健忘症に違いない。
そう思い、自分をなだめた。
しかし、部長のお小言も昨日と同じ、回ってくる書類も昨日処理したやつじゃないか
、昔よくいっしょに飲みにいった地方営業所の神岡も やあ佐々木ちゃんひさしぶり〜
とか言ってるがおまえ昨日会ったばっかりだろ。土産にもらったもみじ饅頭の箱を
にらみつけ腹の中で叫びながら就業時間も終わる頃にはこりゃ健忘症じゃないなと
佐々木は思った。
なんだか上の空で会社を出てくると目の前に本屋があった。
そういえば料理の本を買って帰るんだったな。
佐々木はこういう本を買うのは初めてだったので、店員に場所を聞いて本棚の前に立
ったが、何がいいのかさっぱりわからない。いろいろ考えているうちにまた会社での
変事を思い出しそうになって、佐々木は一番分厚くてビニールコーティングしてある
ような本を手にとり、レジに向かった。
同じホーム、同じ電車、同じ人の群れ。
家に帰ると奈津子が出迎えてくれた。
そうだ、何かあっても自分には奈津子がいる。
やっとほっとしつつ、土産の料理本を渡した。
本屋の紙袋から取り出した、奈津子は最初驚いていたが、だんだんとうれしそうな笑
顔がひろがった。
これ前から欲しかったんだけれど、とても高いでしょ。手がでなかったの。うれしいわ。
佐々木はこんなに喜ぶのならもっといままで買ってやるんだったなぁ
と思った。
とりあえずリビングの本棚にその本を仕舞い、すぐ夕食にするわね。といって奈津子
が台所へいったので、テレビをつけつつ、新聞を捜す。ふと気が付いて、日付を見る
。9月11日。でも昨日の新聞かもしれないじゃないか。そうだ、9月11日のテレ
ビ欄と今から放送されるものが一致しなければいいんだ。
そう考えて、適当にチャンネルを出した。画面左上に出たチャンネルの数字をテレビ
欄で探す。今は、7時45分か。
佐々木は見る見る失望の色を顔に浮かべた。テレビ画面にはまさに9月11日のテレ
ビ欄に書いてある番組が放送されていた。
翌朝、ほとんど寝付けず起き上がった。今日は昨日とは違うんだ。会社に行ったら、
なにもかも元通りさ。
いつものホーム、いつもの電車、いつもの顔ぶれ。
会社に行く途中で杖をついたおじいさんとすれ違った。
神経が張り詰めていたのですれ違ったときは気に止まらなかったが、一瞬立ち止まり
勢いよく振り返った。
まさに今、一昨日と同じようにおじいさんは赤信号を渡って車に跳ねられていた。
野次馬が集まるなか、一人会社へ向かった。
メールをチェックする。
一昨日のメールが新着で届いていた。
一昨日のやり取り、一昨日の書類、一昨日の仕事。
近藤が能天気に今朝の事故を話題にする。
俺は見ていたんだ。一昨日も。
今日も。
そういえば神岡が明日来るんだってさ、ひさしぶりだよな〜。
いつのまにやら話題を変えた近藤がそういった。
そういえば、神岡、もみじ饅頭持ってきていたよな。
机の上をごそごそ探す。
なに探してるんだい?
近藤が聞く。
いや神岡が持ってきたもみじ饅頭をわけようと思って。たしかこの上に乗せたはずな
んだけど・・・・。
神岡が持ってきたもみじ饅頭?
と近藤が聞き返してやっと佐々木は我に返った。
そうか、自分だけ過去に逆行すると物が消えるのか。
近藤や他の人間にはいえなかった。
自分がおかしな状況に巻き込まれているということを。
一応仲はいいが、同期の連中はライバルだという気があった。
もし、元に戻ったら変人扱いされて出世に響く。
しかし、奈津子だけには伝えたかった。
そして味方になって欲しかった。
玄関先に出迎えた奈津子は、少し様子が違う佐々木を見て、心配そうにどうしたのか
尋ねた。
佐々木は堪らずまだ靴も脱がないまま奈津子にしがみついた。
リビングのソファーに2人で腰掛けて佐々木はこの2日間のことを洗いざらい奈津子
に話した。
奈津子は驚いていたが、佐々木の尋常でない様子に何か感じるものがあったらしく、
本気で聴いてくれた。そして、できる限り協力する。と言ってくれた。その日の夕食
は一昨日食べた、佐々木の好物のすきやきだった。本棚をちらっと見たが、昨日奈津
子に買った本は見当たらなかった。
次の朝、佐々木が起きてダイニングに行くと、いつもと変わらぬ奈津子がいた。しば
らく様子をみて、
俺も馬鹿なことをしたな
苦く思った。
奈津子は何も知らないようだった。
数ヶ月そんな日々が続いた。
どうやら真夜中の十二時で佐々木の時間だけ過去へ飛ぶようだった。
そして、その日に経験した事は絶対に避けることができなかった。
今日の夜ベットに入ると翌日には出張先のホテルで目覚めるという具合だった。
その日一日は自由にできるが、それがなんになろう。
次の日には今日やったことがチャラになっているのだ。
その日は車で事故にあって死んだ岩井の葬式があった。
翌々日岩井は出社してきた。
いつものホーム、いつもの電車、いつもの顔ぶれ。
退職していった遠藤が出社してきた。
途中入社だった道旗が会社にこなくなった。
何年も何年も何年も
いつものホーム、いつもの電車、忘れていたなつかしい顔ぶれ。
佐々木さん、どうかしましたか?佐々木さん?
佐々木は目の前の遠藤の顔をしばらくぼんやり眺めてから我に返ったように目をしば
たいた。
いやなんでもないよ。
そう彼が答えると、遠藤は
そうですか、それじゃ私はお先に失礼します。また明日。
そう言ってフロアーの出口へと向かった。
佐々木も手を挙げつつ
また明日。
と言いかけたが言葉が出なかった。
今考えるといままで思い出していた未来はすべて幻だったのかも知れない。どうして
も薄いスクリーンのかかった、その向こう側に存在しているような、色彩もなく、音
も平板にしか思い出せない。くっきり鮮明なのにもやがかかっている。絶望で薄暗く
もやがかかっている。
先月、奈津子と結婚式を挙げた。避けられなかった。涙が止まらなかった。
奈津子は
こんなに涙もろい人だとは思わなかった。
と言った。
そして翌日奈津子は家からいなくなった。
寂しかった。
話したことを翌日にはなにも覚えていなくても側にいてくれるだけでよかった。
奈津子はしばらくして大学4年生になった。
自分も新入社員に戻って忙しくなった。
それでもデートには無理をしてでも行った。
へぇ〜陽一さんてすき焼き好きなのね。
君は将来とっても料理が上手になるんだよ。
将来ね。
しばらくすると、奈津子は高校生になった。
佐々木は大学2年生になった。自分の体も若返っているようだった。
奈津子が高2の夏休みに事故が起こった。
自転車通学していた奈津子をトレーラーが引っ掛けたのだ。
その時一ヶ月ほど奈津子は入院したのだった。
目撃者だった佐々木は抜群の記憶力で車のナンバーを覚えていた。
眼鏡をかけていた中年の頃と違って若い時は視力もよかった。
佐々木のお陰で犯人も捕まり、その縁あって2人は付き合うようになったのだ。
奈津子が昨日から入院している。
一ヶ月後には奈津子は俺の目の前で事故に遭うのか。
佐々木はそれも辛かった。
心の拠り所は奈津子しかいなかった。
目の前で以前の事故が繰り返されたとき、佐々木はナンバーを覚えることしかできな
かった。あの時は義憤を覚え、犯人逮捕の役に立つことができて達成感があったが今
感じるのは苦い思いばかりだった。奈津子の体を抱きしめつつ佐々木は泣いた。
そして、奈津子と会えなくなった。
佐々木は高校生になった。
高校へは電車通学で通っていた。
いつものホーム、いつもの電車、なつかしい顔ぶれ。
母親が生き返った。
女手一つで育ててくれた。
懐かしいかおり。
もう二度と逢えないと思っていたのに。
陽一、ご飯できたからおりていらっしゃい。
母が呼ぶ。
電話が鳴る。
おい、佐々木、今日約束すっぽかしただろ。昨日あれだけ約束したのにこれだからな〜
高校まで親友だった、渡辺の声がした。渡辺は高校卒業直前に父親の会社が倒産して
夜逃げし、それから連絡がつかなかった。
ああ、わりいわりい、ちょっと用事があって。
何とか謝って今度埋め合わせするからさ。と言って電話を切った。
今度埋め合わせ?
だんだん感覚が狂ってきているのかも知れない。
中学生、小学生、渡辺と友達になった日。
今日から親友だ。いつまでも仲良くしようぜ。一生な。
笑顔でそういう渡辺。
明日からただの知り合いになる渡辺。
だんだん頭の中がぼんやりしてきた。
最近よく思う。
奈津子は、俺と一緒に時間を歩んできた奈津子は俺が時間を逆行した後どうしただろう。
俺は2003年の9月12日以後奈津子の側にいるんだろうか。
それとも突然俺だけいなくなったのだろうか。
もし奈津子、一人で残されているんだとしたら。
自分の事で手一杯で全然考えていなかった。
あのまま奈津子の時間が未来へ向かっていったのなら。
でもたとえそうだとしても自分には何もできない。
そう考えると・・・。
・・・・。
このままどこまで遡るんだろう。
幼稚園でりっちゃんに出会った。
りっちゃんわすれていたよ、ぼく。
いつもいっしょだったのに。
赤ん坊にもどる。
生まれたときにすぐに耳が聴こえるってどこかで読んだけれど本当なんだな。
とぼんやり思う。
そしてなにもわからなくなった。



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