trade2の日記

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2007年10月20日(土):いざなみいざなぎ

ちょっとなんか日本書紀にはまってしまいつづけて調べている。昔から国語辞典とかで調べ始めると、隣に書いてあるものまでどんどん読んでしまって時間がかかって仕方がなかったなぁ。本を読んで知識を頭にいれるのは好きなんだよね。

黄泉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89%E6%AF%94%E8%89%AF%E5%9D%82

どこに黄泉があるかというくだりでなんか引っかかるので一字一字調べてみた。


逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時(逃直至現世?泉根國之界 名?泉比良坂時とする本あり)
逃げ来るを、猶ほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に至りし時


黄----キ
泉----セ(ン)
比----ヒ
良----ロ(もしくは リ)
坂----サ(もしくは ハ)


『日本書紀』1書第六の注には「或所謂泉津平阪 不復別有處所 但臨死氣?之際 是之謂歟」とある。 



謂----イ
泉----セ(ン)
津----ツ
平----ヒ(ラ)もしくはビョウ、ヘイ
阪----サ(もしくは ハ)

日本書紀も古事記も漢文にはひとつの漢字に一音ずつ割り当てられているという規則があるのに、どうして黄泉平坂だけ『ヨモツヒラサカ』と読むのかずっと不思議に思っていたのだ。
もしかしたら後で黄泉を『ヨミ』と読むというやり方がどっかから発生して、その後、日本書紀や古事記を研究するとそういうことになるのかもしれないなとか思った。

で、一字ずつ当てはめていくと根の国への道は三重県の津あたりにありそうな感じだ。
しかし残念ながら平坂とか平阪とかいう地名はなさげな感じだ。
まあ津というのも渡し場、船着場とかいう意味だし、水辺にあるんだろう。
津市の周辺に久居市というのがあって、こんど津市に合併したけれど、久居が平阪っていのもなんか苦しいな。

久居市
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%B1%85%E5%B8%82


久居市(ひさいし)は、三重県にあった市。2006年1月1日に旧・津市等10市町村で合併し津市となり廃止した。

青山高原にある風力発電設備は24基と、日本有数の規模。榊原温泉は、清少納言の「枕草子」に有馬温泉、玉造温泉と並び日本三名泉として挙げられている。



古くから知られた温泉があるらしい。
10年ほど前に久居市に仕事でいったことがあるが、まだそのころは下水道が完備されていなかった。なんでも固い岩盤が地下にあるとかないとか言う話だったなぁ。
今度やっと下水道がくるんだよと教えてもらったものだ。結構地理的には交通の便も良い場所でなんか不思議に取り残されている地域だなとかそのときは思ったけれど、おやぁ、その岩盤、穴掘ってもいいのかな。
ちなみにここの出身者の上野英三郎さんはごていねいに秋田犬にハチ公という名前をつけている。
また安芸津国の安芸という地名も今度津に合併されるんだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%8A%B8%E9%83%A1_%28%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%29
なんで日本は東の外れにあるのに秋津国、秋=西の国なんだろうと思っていたが、安芸になにか関係があるのかもしれないなぁ。ちなみに三重県のはアゲと読むらしい。最近合併とかで古い地名が変わってしまうのでだんだんわからなくなっていくなぁ。
まあどうという話でもないが。


ちなみに伊賦夜坂というのを一字ずつ分解すると

伊-----「かれ。かの。これ。この。」とか言う意味
賦-----割り当てる
夜-----夜
坂-----高低のある地面かまたはなにかの境目

ということで「これは夜に割り当てられた境目」とか言う意味

こういう話をみると先日みた、江戸川乱歩さんの履歴とか気になる。

江戸川乱歩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E4%B9%B1%E6%AD%A9


経歴
三重県名賀郡右名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれる(本籍地は津市)。祖父の代まで津藩士であった。父の転勤に伴い2歳の頃亀山町、翌年名古屋に移る。小学生のころに母に読みきかされた菊池幽芳訳『秘中の秘』が、探偵小説に接した最初であった。中学では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業後早稲田大学政治経済学部に入学した。

乱歩は、ファンにサインを求められると必ず色紙に「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」あるいは「晝〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」と書き添えたことは有名。



いま自分たちがいる世界は夜の世界なんだよ、みたいな。

乱歩さんの作品で有名な『黒蜥蜴』も漢字の誤変換でよく『黒と陰』になるので面白いなぁと。江戸川乱歩さんのペンネーム自体が「エドガーアランポー』のもじりだし、なにかそういう細工をしてそうだなとか思う。
まあカゲはカゲでも陰じゃなくて影かもしれないな。電影みたいな使用方法の。もしくはガケ崖。


もうひとつついでに、
名古屋市のマークは丸のなかに漢字の八を書く。マルハチという通称があって、名古屋のいたるところにあるんだったなぁ。昨日やけに日本書紀とか古事記が8にこだわっているなあと思い出してしまった。

http://www.city.nagoya.jp/kankou/profile/nagoya00000012.html


ご存じですか?八マーク


ページの概要:八マーク の説明



家に家紋があるように、都市にはその都市のシンボルマークともいうべき市章があります。その多くは、都市名を図案化したものですが、中には都市の歴史や土地柄を物語るユニークなものもあります。名古屋市の市章である八などはその一つといえるかもしれません。

< 八は尾張徳川家の合印 >


○に八の字を書いて。都市のシンボルマークとしては一風変わった意匠ですが、これが名古屋市の市章です。制定されたのは明治40年10月のこと。明治40年代には神戸市や横浜市でも市章が定められており、当時は市を表象するマークを制定しようという動きが各地にあったようです。
 折しも名古屋は、名古屋港の開港、市制20周年を間近に控え、市勢の発展ぶりを内外に示そうという気運が高まっていました。
シンボルマークの制定にはうってつけの時期であったわけです。


制定に当たっては、懸賞募集で各方面に意匠を求めました。しかし、適当な図案がなく、議論百出の末、最終的には尾張徳川家の合印(注1)として用いられていた マークを採用することになったといわれています。
制定の経緯は定かではありませんが、「丸は無限に広がる力、また八は末広がりで発展を示す」というお目出度いマークであり、名古屋の歴史を大切にしながら、新たな発展を期そうという思いがあったようです。

(注1) 合印
…一般的には、他者と区別するための印。丸八印は尾張藩の略章(正式の家紋は葵巴紋)というべきもので、小使提灯、小者用の紋所、小荷駄などに使用されていた。また元治元年(1864年)、14代藩主・徳川慶勝が上京した際には、藩令で随伴の者に丸八印の木札を腰に下げることが命じられ、同時に家臣の提灯に同様の紋を付けることも定められた。


〈八の意匠のいわれ 〉
八マークが尾張徳川家に由来することは間違いありません。それでは、なぜ尾張藩が用いるようになったのでしょうか。いくつかの説がありますが、主なものは次のようなものです。
尾張八郡(尾張藩政下に置かれていた愛知・春日井・葉栗・丹羽・中島・海東・海西・知多の八郡)の八に由来する
尾張の片仮名表記である「オハリ」の「ハ」に由来する
尾張藩士・安部(または阿部)八兵衛(注2)が常用していた提灯の八の字に由来する
清和源氏の流れを汲む尾張藩が、先祖・八幡太郎義家の定紋である「向い鳩」(注3)を型どり、丸に八の字の紋を作ったことに由来する

残念ながら、いずれも牽強付会の難をまぬがれませんが、尾張の歴史や逸話を踏まえた興味深い説といえるでしょう。

(注2) 安部(または阿部)八兵衛
…尾張藩の腰物奉行で、自分の名の八の字を記した提灯を常用していた。江戸勤番で下町などに赴くと、「尾張の八だ」と人々が見知るようになり、これが広まって、いつとはなしに尾張藩でも丸八印を合印として使用するようになったという。

(注3) 向い鳩
…明治40年10月15日付の大阪朝日新聞号外に「……徳川家における丸八の紋所の由来を聞くに、尾州家は清和源氏の流れであるから、先祖・八幡太郎源義家の定紋鳩の番(つがい)を向かい合わせたのを形どり、○に八の字の紋をつくり……」との記述がある。



〈 現在も愛用されている八 〉


八マークは現在でも市内各所で見ることができます。市民の足となっている市バス・地下鉄の車両、消火栓や下水道のマンホールの蓋、商店の営業許可書…、変わったところでは名古屋城二の丸茶席にある「金の茶釜」(戦災で焼失した金鯱の残塊で造られたもの)にも八印が陽刻してあります。



また、「マルハチ」「まるはち」「丸八」といった屋号や社名を持つ店舗も、市内には数多くあります。職種も、うどん屋、寿司屋、クリーニング店、肉屋、酒屋、商事会社、タクシー会社、材木店……など、挙げればきりがありません。命名のいわれを尋ねてみると、「名古屋市にあやかった」「名古屋一番の立派な店にしたかった」という声が大多数。マルハチは今も、末広がりのお目出度いマークとして市民に親しまれ、愛用されているといえるでしょう。


コンテンツ掲載日 平成17年4月4日



徳川さんは日光東照宮にハクタク白澤とキリン麒麟の書かれた杉戸を作ったりしているんで結構興味があったのだなぁ。ちなみにハクタクはちょうど牛みたいな格好をしていて本来目のあるところに目がなく(顔はのっぺらぼうか)背中に2つわき腹にそれぞれ2つ全部で6個の目があるとかそれ以上あるとか。妖怪のことに詳しくて中国でハクタクに出会った黄帝は11520種(ちなみにこれは3で割り切れる数字。 2^8 * 3^2 * 5 = 11520 で、2*8+3*2+5=27でインド宿曜の27宿と同じ。3*3*3=27)の妖怪について教えてもらってハクタク図なる書物を書いて世の民に示して危険から遠ざけたんだそうだ。徳川家康さんは橋を渡るときには当時の戦国武将は馬に乗ったまま橋を渡るのにいちいち馬から下りて馬を引きながら橋を渡るほど慎重だったのに、最後は海老のてんぷらを食べて死んだんだったなぁ。獅子身中の虫ともいうし、敵はでかいばかりじゃなくて細菌とかにやられてしまって人生おもわぬドツボがあるものだ。ちなみに名古屋は海老のてんぷらも有名で海老大好き人間がそろっているんだったなぁ。海老が登頂にささったおにぎりの天むすとか海老フライ(海老ふりゃぁ)とか有名だったなぁ。ちなみに天むすの発祥は三重県の津市なんだよなぁ。

天むす
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%82%80%E3%81%99

徳川家康さんも白澤図ばかり研究して妖怪が人間の格好をしているとは思わなかったんだなぁ。まあそういうようなシチュエーションとか思い込みってよくやりがちだよねぇ・・・。


白澤
http://park21.wakwak.com/~iccan/genju/touyou/hakutaku.htm


これが大学とかで日本書紀とか古事記を勉強するとこういう発想自体、噴飯ものというか一笑に付される類のものなんだろうけれど、幸か不幸か押し付けられた勉強をしなかったので自由に考えられる。まあ脳内散歩の域を出ないんだけれど。



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